第3回 「浅間温泉にて」

                                       前山 光則

東京へ出かけたついでに、夫婦して5日間ほど長野県へ足を伸ばしてみた。松本市で前回旅した時に知り合った美人女性と会うこと以外は一切事前に予定を決めぬという、足の向くまま気の向くままの旅であった。

 松本に着いた翌朝、温泉に浸かりたくなった。そこで、バスに乗って町はずれの浅間温泉へと出かけたのだが、3月に入ったばかりの早春の時季、温泉街はひっそり閑としている。しかし、2人でさまよう内に共同湯へ出くわすことができて、入浴料は大人250円、これは安い。中は、入浴客も多かった。浸かってみると、ちょうど良い湯加減。今夜の酒盛りは楽しいはずだぞとか、明日はどこへ行ってみようかな、などとあれこれ思いながらついつい長湯してしまった。着替えて外へ出ようとしたら、番台のお婆ちゃんが「あんた、奥さんを待たせたらいかんよ」とキツイ顔。外の道路で妻が寒そうに立っており、いやはや身を縮めて謝るしかなかった。
 近くに、古びた句碑があった。1つは、

 春雨の木下につとふ雫かな はせを
 松に影のこして入ぬ春の月 蔵六

 と刻んである。妻が「はせをって、誰?」と聞くので、「え、ほら、芭蕉。松尾芭蕉のことだ」と教えてやった。もう1つ、
 
 咲いてみせ散つて見せたる桜かな

 と刻んだ句碑もあり、実は芭蕉翁よりもこっちの方に感銘を受けた。老鼠堂機一という俳人の作だそうだが、なんでもお江戸は神田の生まれで、宝井其角の流派だったらしい。「咲いてみせ」るだけでなく「散つて見せ」るのだ。桜の散るさまを儚[はかな]いものとしてでなく、いさぎよいことと捉えており、この詠み方は気が利いているではないか。各地に建てられている文学碑の中には往々にしてただ邪魔になるだけの味気ないものを見受けるが、これなど胸に響いていかにも湯上がりの旅人を喜ばせてくれた。「咲いてみせ散つて見せ…」、句碑の前で何度も口ずさんだことであった。本物の温泉に長湯した後だったゆえ、長く佇んでいても身体が冷めることはなかった。
 そのおかげか、その日の夜は美人と一緒にえらく愉快に呑めた。…いや、ま、これは老鼠堂機一の句とは関係ないか?
(2010年3月18日・木曜)