第33回 興味関心があれば

前山 光則

 前回1年間を振り返ってみたので、ついでながら今年の嬉しかった出来事のうちから1つだけ書いておく。
 9月に女房と共に東京方面へ旅行した時のこと、足を伸ばして埼玉県熊谷市に住む同級生の家に泊まらせてもらった。神奈川にいる同級生も夫婦でやってきて、愉快に酒盛りをしたのである。その翌日、みんなで日光の先の鬼怒川温泉へ泊まりがけで出かけることとなり、熊谷の同級生のご主人N氏が自分の愛車を運転して、ワイワイガヤガヤ、まずは旧谷中村(やなかむら)の渡瀬遊水池を見学した。ここは昔、足尾銅山の鉱毒に蝕まれ、ついには廃村となったのである。広大な遊水池には茫然としてしまった。

▲渡瀬遊水池。遊水池は広大で、
写真1枚にはまったく収まらない。
谷中村の悲劇を思って胸が大いに痛んだ

 さて、それから渡良瀬川沿いに谷を上れば足尾銅山を経て日光東照宮や鬼怒川温泉の方へ行けるのだが、運転役のN氏が血圧の薬を家に置き忘れた、とおっしゃる。薬を飲むのをサボるのは良くないので、いったん引き返すこととなった。そして、薬を間違いなく車に入れた後、再出発。今度は少し近道となるコースで日光を目指したのだった。それで、太田市という町へ入ったら、前方左にチラッと「高…彦…」とかいう標示が目に入った。エッ、何だ。よく見ると、「高山彦九郎生家跡」と書いてあるではないか。何という巡り合わせだろう。N氏がそちらの方へ車を進めてくれた。そんなわけで、まことに幸いなことに高山彦九郎の生家跡と高山彦九郎記念館とを見学できたのであった。
 彦九郎は江戸時代中期の勤皇思想家で、後の幕末の志士たちに多大な影響を与えた人だそうである。寛政5年(1793)に九州久留米の森嘉膳宅で自刃して46年の生涯を終えるが、その前年には肥後・日向・薩摩方面へ来ている。旅の様子は紀行日記「筑紫日記」でくわしく知ることができ、わたしも旅行に出る前に読んで感銘を受けたばかりであった。簡潔な文体、折々に記された和歌がまた味わい深い。たとえば現在の熊本県球磨村神瀬(こうのせ)の神官宅に泊めてもらった時に「千早ふる神の社(やしろ)やいさぎよき流れに望みくむぞ楽しも」と詠むし、そこの神官が72歳だと知って「七十に二あまると木綿葉川そのみなかみに幾代すむらむ」とほめ言葉を贈る。木綿葉(ゆうば)川は球磨川の別名、それを使ってうまい詠み方をするわけで、彦九郎は厳しく思想を追究する一方でこんな風雅(ふうが)を楽しめる人だったのだ。
 わたしは高山彦九郎が上野国新田郡細谷村の生まれとは承知していたものの、それが現在の群馬県太田市に属するとは思っていなかった。実に嬉しかった。いや、単なる偶然ではあった。しかし、やはり無関心だったら車で通行する途中に「高山彦九郎生家跡」との標示があっても目に入らなかったろう。興味関心があればこそ、喜ばしい偶然もコロリと転がり込んでくれるのだなあ、と思ったことであった。
 来年も良いことがありますように!

▲高山彦九郎記念館。遺品や資料等がたくさん
展示されている。すぐ近くの生家跡は畑と化している