第41回 やよ忘るな

前山 光則

 村上護・著『けさの一句』をめくっていたら、風変わりな句にぶつかった。

   粉乳とパンの廊下をやよ忘るな    攝津幸彦

 季語のない、破調気味の詠み方だが、「あおげば尊し」の一節が使われているので春らしさが充分に伝わる。ただ、我ながら情けないことには、この句を目にした時、「ん、フンニュウ?コナチチ?」、すぐにはピンとこなかった。しかし、句につけられた「昭和二十九年に学校給食法が施行され曲がりなりにも欠食児童はいなくなった。準備で係になると、がたぴし廊下を行き来したのが懐かしい」との解説文を見てハッと気づいた。そうだ、子どもの頃に世話になった脱脂粉乳(だっし・ふんにゅう)のことなのだ。
 この句の作者・攝津幸彦という人は、昭和22年兵庫県生まれ。現代俳壇にあって異彩を放っていたが、平成8年に急死したのだそうである。実はわたしも作者と同じ年の生まれだ。戦後の数年間に爆発的に出生し、世間からは「団塊(だんかい)の世代」などと呼ばれてきたわたしたち。小学校に入学したのは他ならぬ学校給食法施行の昭和29年だが、入ってすぐからではなく、1年生の途中であったか、あるいは2年生になってからだったか、「粉乳」が確かに昼飯の時間に登場してきたのだった。粉状のものを水で溶いて、温めてあった。アルマイト弁当箱を開き、麦飯と漬け物主体の中身をつつきながら、弁当の蓋にその粉乳を注いで啜(すす)っていた。
 ついでに「パン」は当時の常識ではコッペパン以外には考えられない。あのさして大きくもない、紡錘形のもの。しかし、わがふるさと人吉市の小学校ではこれはなかった。もっぱら粉乳だけの「給食」だった。学校給食が全国規模で始まっても、実際に九州の片田舎まで普及するには時間を要したのである。
 粉乳は、おいしいものではなかった。しかも飲んだ後やたらと腸が動く。つまり、ひんぱんにオナラが出るわけで、これには悩まされた。でも、それでも「牛乳がいつも飲める」と思うと幸せ感があったし、余りが出たらお代わりしていた。1日の小遣い銭が5円しか貰えなかったあの頃、ビン入り牛乳の値段は1本10円していた。子どもにとって「牛乳」は気楽に飲める品物でなかったのだ。
 そのように切実に粉乳をありがたがった時期があったというのに、一句を目にして咄嗟(とっさ)には思い出せなかった。永らく飽食の日々を過ごしてきたため、心が緩みきっていたわけか。ちょうど、今、あちこちで卒業式が行われていることだろう。卒業式といえば「あおげば尊し」は定番であり、その一節「やよ忘るな」を用いたパロディー風のこの句、チクリとわが胸を刺した。
 ああ、また飲食物の話になってしまった!

▲この土手道を、毎朝、夜明け前から散歩する。最近1週間ぐらいで土手がずいぶん青々としてきたと思う