第51回 白寿を祝す

前山 光則

 昨日、近所を歩いたら麦の色づき具合がほとんど黄金色、とても良かった。そしてわが家の庭では枇杷の実が熟しつつある。近いうちには椀(も)いで食べられるゾ、いや、まだまだかなあ。他愛もなく愉しみである。
 最近、それよりずっと気持ちの弾むことがあった。それは5月12日の朝、読売新聞を開いたら「顔」という欄に「白寿(はくじゅ)を迎える、能楽界の生き字引」との見出しがあり、白髪の紳士が大きく写っていたのである。悠揚として柔和なお顔、能楽評論家で横浜能楽堂館長の山崎有一郎氏である。5月21日で満98歳、数えで99歳になるので「白寿」ということになるわけだが、このたびそれを祝って来月18、19日の2日間、能「翁」や琉球舞踊の上演会が横浜能楽堂で行われるのだという。「もうそのような御高齢であったか!」と感嘆の声を挙げてしまった。
 5年前に送って下さった著書『昭和能楽黄金期 山崎有一郎が語る名人たち』(檜書店)によると、氏は小さな頃から東京の飯田町の喜多流宗家に仕舞稽古に通っていたそうだ。
「師匠は内弟子の高林吟二(たかばやしぎんじ)師、ヒドク厳しい稽古でした。相手はまだ進学前の幼児なのに、扇の持ち方が悪いと、手の甲がミミズ腫れになるほど叩かれました。その度にボクは『アシタカラキテヤルモンカ!』とフンガイしたことも度々でしたが、その後も止めずに通っていたようで、結構、稽古は合っていたのでしょうか」
 微笑(ほほえ)ましくもまた涙ぐましい思い出話だが、こうして鍛えられて育ったから能楽の精神は体中に染みこんでいるのだ。
 懐かしい方である。東京で夜間大学生だった頃、昼間、小さな出版社に1年3ヶ月ほど勤めたが、そこの編集長が山崎氏だった。永らく朝日新聞社に勤めた後、定年退職する時に請(こ)われて入社なさったのである。恰幅(かっぷく)の良い、温和な紳士だった。著者たちのところへ仕事で出向く時、しばしばわたしを連れて行かれたが、あれはたぶん田舎出の者へ少しでも勉強させてやろうとの配慮だった。そうとも気づかず、こちらはホイホイとついて行くだけだった。その後、能楽書林という出版社へ移られた。横浜能楽堂初代館長に就任されたのは平成8年である。
 9年前、用があって上京した折りに34年ぶりに再会することができ、御馳走していただいた。その時は「いやあ、あの頃の君は純朴で、ボーッとしていたねえ、あはは」と言われ、ただただ頭を掻くしかなかった。
 高齢の方がお元気なのは気持ちが良い。記事を見て、活力を分けてもらうことができた。山崎さん、白寿を心から御祝い申し上げます。新聞の写真、相変わらず堂々としてますねえ。ボクも元気ですよ。相変わらずボーッとしています。でも、こないだ黒川能を観て感激しまして、能楽も良いものなのですね。

▲近所の麦畑。畑の周囲は住宅地化しているが、ここらは「麦島」と名がついている。昔から作物のよく出来る肥沃な三角州なのだ

▲色づいてきた枇杷の実。実は小さいけど、ちゃんと甘くなる。ただ、「食べられるのは、ずっと先よ」と女房は言う。確かに、まだ頼りない黄色だよなあ