連載コラム: 『本のある生活』 2011.10.26

第72回 アジアは常に千のアジア

前山 光則

 この頃あちこちに目につくのが、柿の実である。良い色だ。朱欒(ザボン)や晩白柚(バンペイユ)も太ってきたし、秋が深まりつつあるのだ。そして、空気が爽やか。「読書の秋」とはよくぞ言ったもので、本を読むにも適した季節だ。今し方、弦書房から出版されたばかりの有馬学・松本健一・中島岳志・劉傑・李成市編著『いま「アジア」をどう語るか』と 四方田犬彦編著『アジアの文化は越境する』の2冊を読了したところである。
 両方とも、福岡ユネスコ協会が開催した福岡国際文化シンポジウムの講演・レポート・討議等をもとにしてまとめられており、前者が一昨年の分、後者が昨年の分だそうである。同じ九州内に住んでいながら、こうした催しのことは知らなかったなあ。でも、福岡の町でアジアを考えるのは、いかにも似合っているのではなかろうか。たまに出かけて行くと、玄界灘の海風が吹いて、それだけで大陸や半島の空気が感じられるのだ。いつもはそんなこと思いもしないのに、福岡では、自分は今アジアの一角に立っている、と呟きたくなる。
 まず『いま「アジア」をどう語るか』であるが、有馬学氏が、アジアというものを考える際には誰もが考えつくような「一種類の語り方というのはもはや存在しない」と言っている。ホント、そうだ。言われてみれば、わたしなんかはヨーロッパ対アジアという単純な比較のしかたに慣れきっていたのだ。だが、少なくとも現在の「アジア」の諸国は一つ一つ特有の顔つきを持って存在しているのである。だから、中島岳志氏の「日本中心のアジア主義というものを相対化していかなければならない」との発言も説得力を持っている。日本がアジアの中心に立っていると幻想できるような根拠は、過去にも現在にもない。
 『アジアの文化は越境する』の方では、なにより四方田犬彦氏の発言が示唆に富んでいる。氏は、ヨーロッパはいちようにキリスト教があり、アルファベットで文字を書く、というふうに比較的単純である。だが、アジアは「国ごとに言葉も文字も宗教も社会体制も違う」、したがって「アジア」とひとくくりにできないので、「アジアはつねに千のアジアなのです」と語る。これは有馬氏の発言「一種類の語り方というのはもはや存在しない」に通じて行くはずである。さらに面白かったのは、怪奇映画を論じる中で「怪奇映画が存在しない国があります。それは基本的にイスラムの国です」と説くのだ。つまり、イスラムという単一の価値観が支配する国には怪奇映画がない。それは、多様な価値観の中から生まれる! なるほど、と頷かされる。怪奇映画の多いわが日本は幸いなるかな、である。
 「千のアジア」を論じて結論が出ているわけではないし、出るはずもない。だが結論の出るはずもない「千のアジア」を見つめ、考えようとする姿勢が大切だし、尊いのだ。

▲国道沿いの柿の木。日奈久(ひなぐ)温泉の近く、国道3号線の道端である。こんなにたくさん、うまそうに生(な)っているのに、椀(も)いだ形跡がない。もったいないなあ

▲朱欒(ザボン)。わが町には、朱欒や晩白柚(バンペイユ)があちこちに植えられている。色づくのは冬に入ってからである
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いま〈アジア〉をどう語るか
アジアの文化は越境する
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