第91回 歩きまわると見えてくる

前山 光則

 今回も旅先での話である。
 3月10日、JR両国駅南側の方の緑町や両国界隈を歩き回った。北側は、駅を出てすぐのところにある国技館で相撲見物を楽しんだことがある。でも南の方は初めてだ。まず地図を頼りに緑二丁目の墨田区立緑図書館を訪ねた。戦前の「本所区東両国緑町一丁目14、日活館筋向」という住所がどのあたりになるのか知るためだったが、タイミング良く「大空襲・疎開体験資料展」が催されており、昔の地図も展示されていた。だから簡単に位置を確認することができて、幸運だった。 
 この「緑町一丁目14」には、かつて喫茶店があったのだ。店主は小野八重三郎といって、東京府立三中(現在の両国高校)で芥川龍之介の一年後輩だった人である。芥川の全集にはこの人宛ての書簡が何通も載せられている。柳原白蓮夫妻とも親交があったらしい。また、小野は俳句を作るとき「半路」と名乗ったので、喫茶店の名も「ハンロー」。昭和25年3月13日、57歳で亡くなっている。水俣で15年間闘病した末に35歳で世を去った詩人・淵上毛錢の命日が、3月9日である。その4日後に小野が逝ったことになる。
 毛錢は、東京にいた頃、ハンローの常連だった。小野八重三郎と知り合ったのが昭和6年、16歳の時である。青山学院中学部に在籍しながら学業に身が入らず、ただチェロを弾くことには熱中していたそうだ。そのような時期にハンローに出入りしていたのだが、常連の一人に沖縄出身の詩人・山之口貘(やまのぐち・ばく)がいた。淵上毛錢と小野・山之口との間には最後まで交友が続いた。
 両国駅から北の方は国技館や江戸東京博物館があってガヤガヤしているが、南側は緑町も両国も至って静かだ。もっとも、春日野部屋等の相撲部屋やちゃんこ料理店等が散在する。ただ、翌日から春場所が始まるので力士たちはぜーんぶ大阪へ出向いているわけで、相撲ファンとしてはガッカリだ。ところが、である。ハンローのあったとおぼしきところをキョロキョロ見回したり写真を撮ったりしていたら、町の人から「回向院(えこういん)がすぐそこですから」と知らされた。おお、回向院。ここらはそういう一帯であったか!
 両国二丁目に入ると、すぐに回向院があった。今でこそ国技館は両国駅の北側に移っているが、もともとはこの寺の境内にあって、昭和21年まで本場所が開催されていたのだ。だから付近に今でも相撲部屋等がある。現在、繁栄をすっかり駅の北側に奪われているものの、ここらは日本大相撲の聖地である。もともとはたいへん賑わう界隈だったのだな、と思った。だから喫茶店があっても不思議でなかったし、ハンローには相撲関係者も結構出入りしていたのではなかったろうか。
 歩きまわると見えてくるものがあるなあ。平凡ながら、その日強く実感したのであった。

▲ジャンボサイズの専門店。両国四丁目にある店。ジャンボサイズの品々がたくさん売ってある。大相撲の力士たちはもちろんのこと、体の大きい人たち向けの専門店だ

▲回向院入り口。浄土宗の寺。山門を入って左手に、かつて国技館があった。天明元年からここで相撲興行が始まったのだという。寺の斜め裏は、吉良上野介邸跡である

▲鼠小僧次郎吉供養碑。御存知、江戸市中を賑わせた義賊である。回向院の境内には、他に江戸時代の戯作本作家・山東京伝・京山や音楽評論家として活躍した植草甚一の墓等もある