連載コラム: 『本のある生活』 2012.10.26

第119回 いれかはるなり

前山 光則

 このところ秋も深まりめっきり冷えてきたので、例年のとおり屋根裏部屋へ移った。そして、今、石牟礼道子氏の作品を読んでいる。

  ひとりごと数なき紙にいひあまりまたとぢるらむ白き手帖を
  おどおどと物いはぬ人達が目を離さぬ自殺未遂のわたしを囲んで

 石牟礼氏は若い頃さかんに短歌を詠んでいて、実に良い歌が多い。一首目は十七歳頃、二首目もやはり十代の終わり頃の作だそうだ。溢れ出てくる思いをうたったり、自殺願望の自分に苦しみつつ、そのような自分を五七五七七の中に封じ込めている。この人は最初からちゃんと歌人だったと言えよう。
 中でも、その本領が如実に現れるのは、祖母を詠んだ作品ではなかろうか。

  白き髪結はへてやれば祖母(おほはは)の狂ひやさしくなりて笑みます
  狂ひゐる祖母がほそほそと笑ひそめ秋はしづかに冷えてゆくなり
  狂へばかの祖母の如くに縁先よりけり落さるるならむかわれも

 心を病んで久しい祖母へ気遣い以上に熱い気持ちで手を差しのべているわけで、ばばさまが自分か、自分がばばさまか。祖母のさまよう世界は、作者の心といつも隔てなく通い合い、同化しているふうである。だから、

  雪の辻ふけてぼうぼうともりくる老婆とわれといれかはるなり

 これは直接自分の祖母のことを言っているのでなく、「老婆」は単に「老婆」なのかも知れない。ただ、雪降る辻にあって「老婆」と「われ」とが入れかわる、というのである。夢うつつのようなことが詠まれているわけだが、石牟礼氏の歌を読んできた目にはなんだか現実味を帯びて感じられる。ああ、作者はわりと自然に目の前の人と「いれかはる」ことができるのではなかろうか、という気がする。石牟礼氏には、同じ趣向で「あっけらかんの舗道(みち)かわくときいれかはる白髪なびく老婆とわれと」という歌もある。
「苦海浄土」をはじめとする石牟礼氏の散文作品群を読むと、登場する人たちの語りがどこまで実際のことでどこからが作者のフィクションなのかが判別つかない。でありながら、全体がごく自然な語りとなっており、作者は登場人物たちに同化し得ているのである。ルポルタージュでありながら、ルポルタージュを超えている。そのように不思議な魅力を湛えているわけだが、若い頃の短歌、特に「老婆とわれといれかはるなり」にすでに同質のものがあるような気がしてならない。

▲山茶花。近所の道端に咲きはじめた。去年最初にこの花を見かけたのは11月5日だったから、今年はだいぶん早い。急に冷え込んだからだろうか(10月24日撮影)

▲刈田に青い穂。刈り取りが終わってどのくらい経ったろうか。切り口から青い穂が出てきている。やがてはこれも枯れて、冬が来るのだなあ
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