第129回 「母」を死なせるのはなぜ?

前山 光則

 一昨日、近くの河原で恒例のどんどやが行われた。これで正月気分ともお別れである。
 さて、地元のFMラジオで毎月2回ずつお喋りをしているが、1回につき2時間近い放送のうち15分ほどは文学の話だ。ここ数回は、寺山修司を話題にしている。寺山は昭和58年に47歳で亡くなっており、番組の相手役である若い女性アナウンサーにとっては馴染みのない文学者だそうだ。ただ、カルメン・マキがうたって流行(はや)った「時には母のない子のように/だまって海を/見つめていたい」を話題にしたところ、これにだけは少し反応してくれた。「なんだか、小さい頃に聴いた気がする」のだそうである。
 それはともかく、寺山修司を読み返してみて、あらためて目を見張るものがあった。

「川口松太郎が芸術新潮で『批評家がほめる映画と一般客が見にくる映画が違うから批評家を信用しない』といっているが、私にいわせればそれだけに大映の映画は一番つまらない。今年も『雨月物語』の一本きり。」

「フロラの断章ー映画メモ」と題したエッセイの中の一部だ。寺山はこれを青森高校3年生の時に高校の新聞に発表しているが、冷静で鋭くて、とても少年の書いた文と思えない。だがその2年前の高校1年生の時、青森の新聞「東奥日報」に「母逝く」という題の連作短歌が載った、こっちの方がさらに驚く。

  母もつひに土となりたり丘の墓去りがたくして木の実を拾ふ
  埋め終へて人立ち去りし丘の墓にはかに雨のあらく降りくる
  音たてて墓穴深く母のかんおろされしとき母目覚めずや

 土へと戻った亡き母への感慨、墓場をなかなか立ち去りがたい思い。あの墓に棺桶が下ろされた時に母は目覚めなかったろうか、と後で思いやっていたりして、悲しくも切ない、ドラマ性のある連作だ。そしてこれを事実と思ってはいけないわけで、寺山の母親は夫が昭和20年9月に戦死して以来、一人っ子の修司を女手ひとつで育てている。寺山が高校生の頃は遠い九州の福岡県芦屋町へ出稼ぎに行き、わが子のため懸命に働いている最中だった。つまり短歌連作「母逝く」はまったくのフィクションであり、高校生歌人はきわめて豊かな想像力の持主だ。その後、短歌は言うまでもなく詩・俳句・演劇・競馬評論と色んな分野で活躍し、昭和二十年代から五十年代を疾駆した寺山修司。早熟、いや、ほとんど天才だったと言えるのではなかろうか。
 それにしても、実際の生活では寺山は母親を大切にしたそうだが、作品の中では何度も「母」を売ったり死なせたりしている。これはなぜなのか。寺山修司を論ずる場合に不可欠の課題なのだろうな、と思わざるを得ない。

▲梅の蕾。今度の冬はえらく寒い。でも、梅の蕾はもうだいぶんふくらんできており、もうじき春が来るのである

▲どんどや。今、子どもたちが火をつけてまわっている。これが燃え上がり、燃え落ちる。すると、今度はみんなで熾火(おきび)をつかって餅を焼くのである