第139回 闇に裂く魔山の石

前山 光則

 先日、水俣市に住む書道家・渕上清園氏のところへ遊びに行ったら、「赤崎覚(あかさき・さとる)の書いたものを、見てみらんな」と短冊を出してくださった。毛筆で「闇に裂く魔山の石」とあり、下には「覚」と名が記されている。ああ、赤崎さんが亡くなってずいぶん経つなあ。熱いものがこみ上げてきた。
 清園氏は昭和2年の生まれだが、赤崎さんと同級生だという。小さい頃から仲良しで、小学校でも一緒に机を並べていた。書方選賞会が催された時、清園氏は一等賞を目指して一所懸命に書いていた。ところが、「天」という字を書く時、なんの拍子にか右横にいた赤崎さんの肘がドンと当たり、最後の一画分が勢いよくはね上がってしまった。赤崎さんは気にする、清園氏は落胆する。だがそのまま提出したのだった。ところが、その書作品がなんと一等賞に選ばれたのだという。書いた本人としては予期せぬことだったろう。かたや肘をぶつけてしまった方だが、「赤崎はな、小躍りして喜んだとバイ」、清園氏はそんな思い出話を嬉しそうに語ってくれた。そして、短冊の字であるが、大人になって赤崎さんが遊びに来た時、清園氏が無理やり書かせたのだそうだ。短冊をしみじみと見ながら、氏は「わしゃ書家じゃが、この字には勝たん」と呟いた。いや、ほんとに味のある字だ。
 短冊を見せてもらった日、家に帰ると久しぶりに焼酎を呑みたくなり、チビチビやりながら赤崎覚さんの面影を偲んだ。赤崎さんは、水俣市役所に勤めていた頃、石牟礼道子氏に水銀中毒(水俣病)の実態を教えてあげた人なのだが、自分でもいろいろ書いていた。わたしが熊本で出ていた雑誌「暗河」の編集を手伝っていた頃、赤崎さんは「南国心得草」と題した好エッセイを連載していた。こちらから御自宅に押しかけて、徹夜で書いてもらうことしばしばであった。一字一句、訂正なしで原稿用紙のマス目に字が埋まっていく。短冊に見るような良い字だ。だから読みやすい原稿となるわけだが、これがなかなか先へ進まないのである。しかも、油断してちょっと目を話せばドロンと姿が消える。深夜の水俣の町なかを探し回ると、赤崎さんは居酒屋で焼酎を舐めている、といった按配だった。
 赤崎さんは平成2年1月13日に亡くなられた。お葬式の時に各方面から寄せられた弔電の中で、谷川雁氏のが際だっていた。「まじりけのない/ひとくれの土よ/何もかもそのままに/静かに変わっていけ/降る雨は今日から/君の酒になる」——赤崎さんは雁氏を敬愛していたが、雁氏もまた年下の友人の死が真底悲しくてならなかったのである。
 そんなふうに、思い出が次から次に甦った。
 だが「闇に裂く魔山の石」とは、何が言いたかったのだろう。意味不明である。好人物だった赤崎さんの胸の内の、他人には明かさなかった闇がかいま見えるような気もする。

▲赤崎覚さんの筆蹟。赤崎さんは、無類の焼酎好きだった。清園氏と焼酎を酌み交わしながら書いたのだったろうに、丁寧な字である。感心してしまう

▲谷川雁氏の弔電文(渕上清園・筆)。こうして渕上清園氏のしっかりした筆づかいによって書かれたものを読み返すと、これは心のこもった「詩」になっているなあ、と思う。さすが谷川雁である