第140回 梨の老木と千年杉と

前山 光則

 3月31日、友人夫妻の車に便乗させてもらって熊本県球磨郡水上村の山奥へ梨の花を見に行った。梨園で栽培されているようなものではなくて、球磨・人吉地方で「石梨」と呼ぶのだが、つまり山野に自生する「やまなし」の種類である。その石梨の花が咲いた、というので勇んで出かけたのだった。
 午前11時前、現地に到着。谷あいの一軒家である。そこの屋敷の前の崖っぷちに樹齢100年を超す石梨の老木が枝を広げている。可憐な白い花がいっぱい咲いて、花の間には若葉も結構目につく。栽培種の梨よりもずっとみずみずしくて、魅力的な花である。友人夫妻も驚嘆の声をあげた。もっとも、90余歳の婆ちゃんの言では「今年は裏年じゃもんで、花が少なかし、葉が一緒についとる」とのことで、そういえば去年は老木は花だけで包まれていた。老木の子どもにあたる木が崖下にあるが、そちらの方も若葉が多い。でも、たとえ裏年でもほんとに美しい花だ。
 婆ちゃんの面倒を見るため帰省している息子さんがとても料理上手で、昼飯を作ってくれた。筍御飯・アサリ汁・ヤマメの塩焼き・鹿肉のニンニク醤油焼き、野菜のごった煮・アジの南蛮漬け等が次々に出てきて、そのいずれもがうまい。しかも御馳走を口に入れながら窓越しに梨の花を眺めるのだから、なんという至福の時間であったろう。食べながら、老木を見上げながら、なんか、こう、うまく言えないが、木全体が静かに息をしているかのような、いや、確かに息づいている。木の中に魂が宿っていそうな、そんな確信のようなものが身内から湧いて出てくるのだった。
 昼食後、息子さんが千年杉へと案内してくれた。市房山(標高1722メートル)の中腹に市房神社があるが、そこへ登る参道沿いに杉の巨木が数えきれぬほど聳え立ち、「千年杉」と呼ばれているわけである。わたしは何回も見ている。しかし友人夫妻は初めてであった。麓の駐車場に車を置いた後、参道へ入る。雑木が鬱蒼と林立する中を歩くと、空気の澄んでいるのが全身で感じられた。千年杉をカメラで捉えようとしたが、丈が高すぎて画面に収まりきれない。良い写真を撮ろうなどという気持ちを捨てて、木の肌に触ってみる。冷たいのか、アッ、違う。むしろやや温もりがあるような気がする。木の鼓動が聴こえるかのような錯覚が、ここでも生じた。
 千年杉は、スックと天を衝いている。まことに頼もしい姿である。森の中に柔らかな春の日射しが洩れてきていて、杉の先端部の方は日光浴している按配だ。友人夫妻やS氏の喋るのが耳に届く。ついでにこの千年杉が呟き出したって不思議でないゾ、などとつい真剣に考えたりして、笑い出したくなった。
 そう言えば、石牟礼道子氏の著作に九州・山口の古木・名木を見て歩いた紀行『常世の樹』というのがある。読み返してみたいものだ。

▲石梨の老木が見える風景。画面中央よりもやや右手に立つのが石梨の老木である。花の様子はこれでは分からないだろうが、木が屋敷の屋根の高さとほぼ同じなので、高さ大きさが納得できると思う

▲千年杉。なんとも大きな杉である。こうした木々が参道沿いに生えていて、日射しもあまり届かない。木洩れ日を浴びた時には、正直なところホッとした