連載コラム: 『昭和の子』 2013.06.27

第十四回 部落差別のタブー

三原 浩良

◆「付属に行こう」と誘われた
 うっかりするところだった。「あのこと」は書いておかねば、と思いつつ中学卒業直前まできてしまった。
 すこしさかのぼる。小学校卒業時の小さな出来事である。
 先にも書いたように、わたしの津田小学校は農村地帯のわずか二クラスの小規模校だった。中学でいっしょになるはずの町の小学校、雑賀小には三倍近いクラスがあった。その小学校卒業生と一緒になる。大が小を呑みこむ按配だから、みんな少なからず不安だった。程度の差はあれ、町の子になにがしかの劣等感のようなものを抱いていた。
 そんなある日、Wが僕を誘った。
「四中は怖いらしい。いっしょに付属に行かないか」
 Wによれば、町の子には乱暴者が多く、殴られるかもしれぬという。付属中学なら乱暴者はいないだろう、と親にすすめられたという。
 腕っぷしにはまったく自信がないから「そうか、ならそうしよう。うちに帰って聞いてみる」と答えた。
 母に告げると、「そうしたければそうしなさい」と言う。
担任教師に申し出たら、付属の試験はとっくに終わり、今からでは無理だという。なら仕方ないや、と四中にいくことになった。
 Wの親が言ったという「乱暴者が多い」とは、どういうことだったのだろう。
 入学してからしだいにわかったことだが、「乱暴者」とはどうやら校区内にあった被差別部落の子供たちのことを指していたようだ。
 だが、大人たちは何も教えてはくれなかった。Wの親のようにさりげなく進路変更をささやく程度。その町名が口にのぼると、とたんに眉をひそめ、うなずいて口ごもる。わたしの両親もこの雑賀小の卒業生だった。おそらく母もおなじだったように思う。父はなにも言わなかった。
「ああ、そういうことだったのか。あれが部落差別というものだったんだ」と、理解できるようになったのは、高校生になってからのことだ。
 その被差別部落は雑賀小の校区内にあったから、雑賀小からやってきた子どもたちはうすうす感じていたかもしれない。だが津田小のわたしたちには部落差別の何たるかなどわかるはずがなかった。
 だから中学では「被差別部落」の子どもたちともふつうに仲良くなった。同級のXとは授業中によくふざけて教師に叱られ、水を張ったバケツを両手に持たされてふたり並んで廊下に立たされたこともある。
 彼、Xは決して「乱暴者」などではなかった。

◆意外な再会のその後
 あとになってわかったことだが、中学校の卒業者名簿をみると、被差別部落出身の子どもたちは、男女とも六つのクラスにきれいに分けられていた。同じことは進級のさいにも慎重に配慮されていたようだ。名簿の名前をもとに推測すれば、在日の子どもたちもきれいに振りわけられていた。
 学校側は、それらのことを十分承知のうえでクラスわけをやっていたに違いない。善悪良否ではない。当時はそれが学校にとってはあたりまえのことだったのだろう。大人たちの世界では、やはりタブーだったのだ。そんな時代だった。

 大学生になったばかりのことだったろう。帰省した折り、仲間三、四人と居酒屋に繰り出した。奥の席でも四、五人のグループが呑んでいた。
 なにがきっかけだったのか、もうすっかり忘れてしまったが、この両グループ、それぞれ二、三人が立ちあがり、一触即発の空気になった。
 そのとき奥の席にいたひとりの男が、声をかけてきた。
「おい、三原じゃないか。なんだ、お前か」
 いっしょに廊下に立たされたX、四年ぶりの再会だった。
「なんだ、なんだ、知り合いか」
 あっけなく騒ぎはおさまった。

 しかし、被差別部落出身の同期生たちは、ひとりも普通高校には進学してこなかった。だから、自然とXたちとの付き合いもそれきり途絶えてしまった。
 あのとき試験がおわっていなければ、あるいは自分も付属中に進んでいたかもしれぬ。そうなれば、結果的に差別に加担したことにならないか。

 明治半ばに旧制松江中学に英語教師として赴任したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、この部落をたずねて伝統芸の「大黒舞」を取材、記録していることを後年になって知り驚く。
 しかもハーンのこのリポートを掲載している書籍が、図書館では「複写禁止」になっていることを知り、差別・偏見がいまに生きていることにさらに驚くことになった。
 
 

こんなのもアリマス

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