第177回 「しかぶる」に思う

前山 光則

 ある本を読んでいて、檀一雄の小説「此家の性格」の筋書きを説明した部分に目が止まった。「旧家の誇りでいつも威丈高な父、役者に入れあげる母、父母の争いは絶えず、毎夜のように寝小便をしかぶる僕……」とある中の「しかぶる」、この単語がとても懐かしい。小さい頃、ふるさと人吉でよく口にしていたなあ。著者は福岡県の人のようだが、やはり福岡地方でも「しかぶる」というのか。だとすれば九州内ではわりと聞くことのできる語であろう。もっとも、九州以外の地方に住む読者には通じないので、ここはやはり広い範囲で理解してもらえるように「小便を洩らしてしまう僕」とでもするのが良い。ただ、著者は一所懸命に作品解説の原稿を書くうち、ついつい不用意に方言が出てしまったのだったろうなあ、と思ったことだった。
 ところが、である。念のために広辞苑を開いてみたら、なんということ、この「しかぶる」という語がちゃんと載っているではないか。「仕被る」と字が当ててあり、語の意味は「しあやまつ。しそこなう」である。ははあ、それではこれは方言ではなく、ちゃんとした全国共通の標準語なのだ。今まで疑いもなしに「しかぶる」を方言と思いこんできた自分は、いやはやホントに迂闊であった。
 わたし自身も知らぬうちに方言か標準語か判別するのが難しいような語を使っている場合があるのだろうな、と思う。実際、いつぞやは随筆の中で「たまげた」と書いたら、読んでくれた友人から「たまげた、なんて、たまがるなあ。方言使うとかい」と言われたことがある。いやいや、「たまげた」は現在形で言えば「たまげる」だが、漢字を使えば「魂消る」で、ずっと昔は「たまぎる」と言っていたはずだ。つまり驚いて魂も消えてしまうということだ。古代の昔から日本人の誰もが口にしてきた語で、今でも充分に一般にひろく通じるはずだゾ、と、その時は反論した。
 でも、あとで考え直したのだが、ふるさとでは友人が冗談気味に口にしたとおり驚き呆れた時の気持ちをもっぱら「たまがる」と言う。これは「たまげる」の訛った言い方である。比較すれば「たまがる」よりも「たまげる」の方が方言臭さはなくなるように思えるが、でも「驚く」とか「ビックリする」という言い方に比べれば広い世間での普及度はだいぶん低いのかも知れない。「たまげる」は昔は普通に使われていたものの、だんだん廃(すた)れて、今となっては古風な、方言っぽい語になってしまったことになろうか。
 だが、あれこれ考えるうち、「しかぶる」も「たまげる」も標準語であるか方言なのかはどうでも良くなってきた。文章語として通用するかどうかはさておき、「しかぶる」も「たまげる」も昔から人々の生活とともにあったわけで、なんかこう、温もりのようなものが感じられる。忘れたくない語だなあ。

▲八代市・松井神社の臥竜梅。細川忠興が手植えしたと伝えられ、樹齢300年を越える老樹。2月24日、満開状態であった