第220回 3月19日、人吉にて

前山 光則

 3月19日(木曜)、雨のち晴。人吉市へ出かけた。信州大学大学院特任教授の遠藤恒雄氏が4人連れで見えたから、知り合いたちと共に市内各所を御案内したのである。
遠藤氏の祖父にあたる小山鬼子三(こやま・きしぞう)という人は、かつて大正13年から昭和3年まで熊本県立人吉中学校の教頭、その後昭和13年まで人吉高等女学校の校長だった。その足跡を辿るための来訪だったので、ゆかりのある場所を巡ったり、卒業生の方たちに昔の話をしてもらったわけである。卒業生は皆さん90歳代だが、たいへんお元気。しかも明るい。思い出話を伺うことは同時にかつての人吉の姿が蘇ることでもあり、一緒にお会いしてとても興味深かった。
 かつての人吉高女跡は、現在、人吉市立第一中学校である。そこへ行ったら、校門を入ったすぐの並木道で恩師と出くわした。学校の隣りに住む永田吉之丞氏である。実はわたしはこの中学校の生徒だった頃、作文が苦手で下手で悩んでいたが、「日記をつければ、作文にも慣れるよ」とアドバイスしてくれたのがこの先生だ。永田氏は小山鬼子三氏のことをよく知っていて、大盛りのカレーライスを御馳走してもらったり家に泊まったりした由である。しかもそれが熊本市での話だ。小山氏は人吉高女を定年退職後、熊本中学や熊本短大・商科大学で非常勤講師をされたので、その頃のことだという。御歳80半ばの永田氏は目を細くして懐かしそうだった。
 ところで学校の並木だが、わたしはずっとプラタナスだと思いこんできた。しかし、皆さん揃って「このハンテンボク、大きいねえ」「ユリの木ともいうでしょ」などと会話が弾むのでビックリ。「おや、ま、プラタナスではなかとですか」と叫んだら、永田氏は「ほう、前山クンは知らんだったかい」、涼しい顔である。他の人たちも微苦笑。ああ何ということか、わたしは何十年も勘違いしたままだった! ハンテンボクは漢字では「半纏木」と書くそうだ。遠藤氏によれば昭和7年に植樹されたらしく、無論、小山鬼子三氏の高女校長在職中のことになる。どのような思いを込めてこの木を植えられたのだったろうか。
 小山氏は、明治14年、長野県麻績村の生まれである。早稲田大学で小川未明・吉江喬松・種田正一(山頭火)等と同期で、小泉八雲や坪内逍遥等に学んだ。『英国児童詩選集』『幸福の宮様』といった訳書があり、人吉高女在職中には『標準婦人文庫・良書百種解説』や『税所敦子刀自』等々、生徒たち向けの啓蒙書・パンフレットを出版する。部下や生徒たちから篤く慕われて、人徳ある教育者だったのだ。孤山と号して俳句にも親しみ、「炉辺親し雪の信濃にある思ひ」「張替へし障子に時雨待つばかり」等、佳句を遺している。昭和29年、73歳で逝去。この人のことはもっと知られていいはずだ。そう思った。
 
 
 
写真①人吉高女校長官舎跡地

▲人吉高女校長官舎跡。後ろに見えるのは人吉城址。画面には隠れているが、跡地の左手には人吉市役所庁舎がある

写真②人吉市立第一中学校の校門と並木

▲人吉市立第一中学校。並木の奥の方に中学校の校舎が見える。ハンテンボクはまだ葉が萌え出ていなかった。青葉の頃にまた見に行ってみたい

写真③熊本県立高等女学跡之碑

▲熊本県立高等女学校跡之碑。校門から入って左手の庭。この碑は知っていたが、その右手に横たわる筒状のコンクリートは初めて気づいた。「女学校用」と刻まれており、テニスコートを均すためのローラーなのだろう