第232回 吉井町にて

前山 光則

 前回は大分県日田市でのことをレポートしたが、あの日の帰り道、福岡県うきは市に立ち寄った。S氏が、ちょっと会いたい人がいるからというので、つきあったのであった。
 日田市から三隈川沿いの国道を走って約30分ほどで盆地を抜け、筑後平野へと出る。ここらでは三隈川は「筑後川」と名前が変わるのだそうだ。前方に、急に古風な町並みが現れてきた。うきは市の吉井町である。右も左も漆喰を塗った白壁の屋敷や商家などの家々が並んでいて、なんだか明治・大正の昔にタイムスリップした感じであった。S氏が知り合いに電話してみるものの、連絡がつかない。ま、いい。せっかくだからこのあたりを歩いてみたくなった。それで、暑い中ぶらぶらと町を巡ったのだが、おかげで観るべき価値のある場所に次から次へとぶち当たった。
 道を訊ねるために立ち寄ったのが「居蔵(いぐら)の館」という家で、ふと中を覗くと、えらく落ち着いた空間があった。明治末期に製蝋で財をなし、銀行経営も手がけた家なのだそうだが、入ってすぐの左手、吹き抜けの奥にある神棚の神々しさには思わず手を合わせてしまったほどである。居蔵の館に近い素戔嗚(すさのお)神社(祇園神社)では強い日射しの下、祭の準備が進んでいて、山笠が据えられ、臨時の灯籠設置なども行われていた。そして、神社に隣接するようにして「菊竹六鼓記念館」があったのには驚いた。六鼓こと菊竹淳(すなお)は今の西日本新聞の前身である福岡日日新聞の記者で、昭和初期の軍政に対して一貫して批判の論陣を張り、信濃毎日新聞の桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)と並び称せされた気骨ある新聞人である。その菊竹は、この地の出身なのだという。先人の業績をしっかり受け継ごうとする心構えが地元民にちゃんとあるわけで、感心した。
 ところどころで鏝絵(こてえ)も見かけた。家の外壁に漆喰で縁起の良い図柄が描かれている。こういうのはたいてい左官職人が手がけたのだろうが、繊細で、センスがいい。
 愉快なのが河童像で、町のあちこちで見ることができた。公園の隅っこや道端、あるいは「金子文夫記念館」というのがあって、なんだろうと入ってみた。するとそこは金子文夫という郷土史家にちなんだ資料館だそうだ。この記念館に夥しい数の河童人形が展示されていて、目を愉しませてくれる。河童が愛されるのは、筑後川と人間との関わりがそれだけ密接であることに他ならない。
 結局、S氏の会いたい人は不在であった。しかし、はからずも吉井の町を「発見」できた。今までこの町は何度か中心部を通過したことがあるのに、別段これといって心惹かれなかった。通り過ぎるだけだったとは、迂闊なことであった。不思議な気持だが、ともかく今回は思わぬ発見をしたことになる。日本にはまだまだ知らないところがいっぱいだ!
 
 
 
写真①吉井町の裏通り

▲吉井町の裏通り。表通りも裏通りも古い建物が並ぶ。春先とか晩秋の頃などにゆっくり散策したいもんだなあ、と思った

 
 
写真②居蔵の神棚

▲居蔵の神棚。実に立派な造りであり、お伊勢さまが祀られているのだという

 
 
写真③素戔嗚神社にて

▲素戔嗚神社の鳥居。「祇園神社」とも言うのだろうが、鳥居には「素戔嗚神社」と刻まれている

 
 
写真④河童像

▲河童像。観光会館「土蔵」出入り口の右横で見かけた。右が男河童、左が女河童だ

写真⑤鏝絵

▲鏝絵。鶴が二羽舞っている様が描かれている。右下の小さい絵は亀が三匹、それと「辰」という字である。鏝絵は大分県安心院(あじむ)が知られているが、昔はあちこちで行われていたのであろう