連載コラム: 『本のある生活』 2015.08.28

第233回 石牟礼弘氏を悼む

前山 光則

 8月20日(木曜)、水俣市在住の石牟礼弘氏が亡くなられた。享年89歳であった。
 弘氏は作家・石牟礼道子さんの御主人で、二人は昭和22年に結婚。道子さんは短歌や文章を綴るうちに昭和44年1月に講談社から刊行された『苦海浄土』で広く知られるようになって作家活動に入っていくが、弘氏は教員生活を続けた。「苦海浄土」の題は、初め作家・上野英信が「苦海」という語を考え出したところ、弘氏が「それなら下は『浄土』とするのが良い」と提案した経緯がある。水俣病患者さんたちの側に寄り添って手を差し伸べ、「水俣病センター相思社」の理事を務めた時期もあり、水俣湾埋立地に設置された水俣病犠牲者鎮魂のための「魂石」と呼ばれる小さな石仏群の中には弘氏作製のものがある。温厚な人柄で、周囲の人たちから「石牟礼先生」と呼ばれて慕われ、道子さんの活動を陰で支えた。定年まで教師として勤め上げて以後は、地元水俣で自適の日々であった。
 わたしなどは、若い頃、女房と一緒によく御自宅にお邪魔して焼酎を飲み交わし、泊まり込んで四方山話を聞かせてもらっていた。同人誌「暗河」の編集を担当していた頃は、水俣に赤崎覚という人がいて「南国心得草」と題した面白いものを連載していたが、ただ、原稿を書くのが非常に遅い。だから、急かせるため、しばしば石牟礼家に泊まり込んで赤崎氏宅へ出向き、半ば付きっきりで書いてもらっていた。そんなときは弘氏がいつも「しっかり赤崎の尻ば叩いて書かせろよ」と励ましてくださっていた。甘えっぱなしだったのであるが、時たま教員関係の集会や会議などで出くわすと、弘氏は堂々たる風貌の先輩教師であった。学校教職員の間では「石牟礼弘」の名はよく知られていて、特に芦北水俣方面では良きリーダーだった。そういう場所でお会いすると、御自宅で飲んだくれて甘えていることが恥ずかしくなってしまうのだった。
 近年は、水俣へ出かけるついでにフラリと御自宅へ立ち寄ってみても、不在の場合が多かった。お元気な時分にはたいてい海へ魚釣りに行っておられたようである。羨ましいな、と思っていたところ、今年の2月に若い友人と一緒に訪ねてみた時は幸いにも会うことができた。「昼間は釣りに行きなさるとですか」と聞いてみたら、「うんにゃ、午後から喫茶店に行くたい」とおっしゃる。水俣駅の近くにある昔からの馴染みの店へ行って、コーヒーを啜るのが愉しみなのだそうであった。釣りにしろ喫茶店通いにしろ、そうした楽しみがあるのだから「悠々自適ですね」と言ったところ、はにかみ気味の笑みが浮かんだ。
 亡くなられた翌日の昼過ぎに御自宅へ伺ったところ、御遺体の入った棺は居間に安置されていた。手を合わせ、礼拝してから覗き込んでみると、やすらかな寝顔がそこにあった。
 弘先生、長い間ご苦労様でした。
 
 
 
写真 石牟礼弘氏

▲石牟礼弘氏。平成27年2月21日(土曜)撮影。この日は淵上毛錢関連の写真を撮影するため水俣市内を巡るうちに、たまたま石牟礼家の近くを通った。それで玄関で声をかけてみたのであった。弘氏と生前最後にお会いしたのはこの時、ということになる

 
 
 

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