第240回 終わった気がしない

前山 光則

 前回ちょっと触れたように、『生きた、臥た、書いた《淵上毛錢の詩と生涯》』(弦書房)が出来上がったばかりである。これを書こうと決めてから5年、書き始めてから3年、こうして一冊にまとめることができて、今、ホッとしている。しかし、これで終わったという気は全くない。とりあえず一応の区切りがついた、というだけのことである。
 なぜかといえば、まだまだ不明な点が多い。水俣市立図書館には淵上毛錢の書簡類がたくさん保管されていて、大部分は東京時代の恩師・小野八重三郎宛のものである。そのおおよそは読み終えていて、しかも大事なことが書かれているものについては一応目を通し得たが、他の分からまだ新しい発見があるかも知れない。それから、毛錢が20歳で結核性股関節炎を発症して35歳で逝去するまで、闘病しながら書いた詩作品は181編、俳句は334句遺っている。これは、あくまでも分かっているだけの数なのである。まだまだ書いた可能性があり、特に俳句は探せばもっと発見できるかも知れない。散文に到っては「詩について」「山之口貘いろいろ」「詩人への便り――非草野心平」の他は同人誌の編集後記が見られる程度であって、これも積極的に探索すれば他にも見つかるはず。
 そして、なにより気にかかったままなのが毛錢の青春時代のこと。昭和4年に東京の青山学院中学に入ったものの自然中退し、昭和10年に病いを得るまでの間、上野の音楽学校に受かったが、やはり長続きせずに、放埒が続いたと言われている。寄席の下足番や新聞配達、波止場人足、トラック助手、あるいは労働運動にまで首を突っ込んだ時期もあるらしい。泊まるところがなくて困ったときなど、海岸に行って砂を掘り、砂に埋まって寝たこともあるらしい。こうした青春バガボンドの中身を、ちっとも作品や私的ノートなどに書きのこしていない。「ふるさとの雪を語りし娼婦かな」という俳句が遺っているが、これぐらいしか東京での遍歴放浪を匂わせるものがない。まわりの者たちにはなにかにつけて「東京ではなあ、俺のあとを女優さんたちがいつもついて来おったっゾ」などとうそぶくことがあったそうだが、ホラ話であろう。毛錢は、自らの生々しい青春遍歴をきっぱりと封印してその後を生きたことになる。
 毛錢はなぜ青春を語らなかったのだろうか。それは、たぶん、20歳で両足の自由を奪われてベッドに臥つづけなくてはならなかったことと関係している。青春が突然遮断されたとき、この人はどんな自問自答を繰り返しただろうか。あるいは、すみやかに現実を受け入れて、粛々と生と死を見つめる臨戦態勢に入ったのだったろうか。東京での遍歴放浪の具体的な様子も、病いを得てからの精神状態を伝える資料も、それらを反映する作品もまだ見ることができない。毛錢について、「課題山積」というのが正直な気持ちである。
 
 
 
写真 水俣市陣内界隈

▲水俣市陣内(じんない)界隈。淵上毛錢の育った町内である。陣内は、昔、武士の住む町だった。今でも名残があって、水俣の中で格式高い雰囲気の感じられる一画である