連載コラム: 『昭和の子』 2015.11.24

第八十二回 佐木隆三さんの訃報に喪失感

三原 浩良

◆「ジャンケンポン協定」との出会い
 ここ数回、「戦後民主主義」について理屈っぽいことを書いてきた。
 ところが安保関連法案のあっけない成立で、われら〝昭和の子〟の戦後民主主義とはこんなにもろいものだったのかと気力がなえ、体調不良もかさなってしばらくはパソコンに向かう気がおきなかった。
 そんな折りもおり、佐木隆三さんが亡くなり、悔いに似た苦い思いがこみあげてくる。わたしが出版社の仕事をはなれ、松江に帰省してからしだいに音信も間遠になり、風のたよりに聞くばかりだったからである。

「そうか、あんたも教科書に墨を塗ったクチなんだ」
 たがいに昭和12年生まれとわかると、急に話がはずんだ。15年ほど前、小倉の酒場でのことである。
 佐木さんのデビュー作「ジャンケンポン協定」(新日本文学賞、1963)を「新日本文学」で読み、二十代のわたしは鮮烈な印象を受けた。
「ジャンケンポン協定」は、大手鉄鋼メーカーの大合理化で労使はジャンケンで解雇者をきめるという協定を結ぶが、二列に並ばされた労働者たちはいつまでも「アイコデショ」をくり返して抵抗するというユーモアとアイロニーに満ちた異色作だった。
 先ごろ廃刊になった「新日本文学」は、プロレタリア文学の流れをひく共産党系の文芸誌だったが、当時は路線対立から険しい理論闘争がつづいていた。このため「ジャンケンポン協定」は、「労働者不在のふざけた小説」と批判され、佐木さんが共産党を除名されるきっかけになったという(佐木隆三『もう一つの青春』)。
 東京の暮らしをひきはらって門司港に居をかまえた「ジャンケンポン協定」の作者との30数年ぶりの邂逅は、話してみれば共通の知人も多く、意外な接点もあったことがわかり、初対面はまるで旧友と再会したような懐かしさだった。

◆取材も重なっていた
 佐木さん初期の快作に『大将とわたし』(1968)がある。熊本県小国町のダム建設予定地の地主だった室原知幸さんは、ダムサイト予定地に〝蜂の巣城〟をかまえて反対闘争にのりだすが、ついには国の代執行により〝落城〟する。
 わたしもこの落城の模様を取材しているが、佐木さんもその模様を対岸から見ていたらしい。『大将とわたし』は〝蜂の巣城主〟の室原さんを描いた作品である。
 室原さんは〝肥後もっこす〟を絵に書いたような硬骨の人で、たずねてもなかなか会ってくれない。なまなかな質問でもすれば「勉強して出直してこい」と追いはらわれる。
 わたしが訪ねたとき、たまたま三浦朱門氏が週刊誌の腕章をつけてやってきたが、目の前にいるのに無視されて弱っていた。安部公房氏も玄関払いされて、腹いせのようなルポを書いている。佐木さんも「あんた、野次馬か?」と追い返されたが、のち信頼を得て何回も通ってこの作品を書きあげたという。
 30数年後、往時の面影などどこにもない満々と水をたたえる下筌ダムを佐木さんたちと訪れて、感慨をあらたにしたものだった。
 直木賞受賞作の『復讐するは我にあり』にも不思議な縁があった。〝蜂の巣城〟落城のすこし前、昭和38年に福岡県で専売公社の集金人と運転手を惨殺したあと、列島を縦断しながら大学教授や弁護士になりすまして浜松で貸席の母娘を、東京では弁護士を殺害して日本じゅうを震撼させた凶悪犯・西口彰が翌年、熊本県玉名市で逮捕される。
 駆け出し記者のわたしは、この犯人逮捕の取材でふりまわされた。熊本から福岡への護送のため玉名警察から出てきた西口は、あたまに頭巾のようなものをかぶされ、これでは写真が撮れない。腹立ちまぎれにおもわず西口の足を蹴っ飛ばしてしまった。そんなわたしのフライングを打ち明けて大笑いしたのも、初対面の酒席だった。
 数々の奇縁がかさなって8年前に当時働いていた福岡市の弦書房から『復讐するは我にあり』を復刊することになった。40年前に講談社から刊行されたこの作品は、いつのまにか絶版になっていた。
 それまで作品のなかでは仮名や仮称にしていた人名、地名をノンフィクション・ノベルだからと、正確な呼称にして手を入れ、上下二冊を一冊にまとめ、改訂・新版として刊行した。

◆〝昭和の子〟の同志だった
 北朝鮮生まれの佐木さんは、4歳で引き揚げて広島郊外の農村で少年時代を過ごし、原爆のきのこ雲を遠望したという。引き揚げて最初に見た祖国は門司港だったのでこの地への思い入れが強い。関門海峡を見おろす高層マンションの上階に居をかまえたが、やがて風師山中腹の風林山房にうつり、ここが終の棲家となった。
 初対面の夜以来、よく呑み歩いた。お気に入りの山房をはじめ、門司港、小倉、博多、松江、東京……とあちこちで痛飲した。わたしは記者稼業から出版業に転じており、呑みながら8年ばかりの間に、佐木さんの本を四冊つくった。
 北九州で起きた医療過誤事件を描いた『証言台の母』、ついで『復讐するは我にあり』の復刊、そして裁判員裁判のシミュレーション小説『法廷に吹く風』。これは月刊誌「論座」に頼んで連載してもらったが、連載最終回で「論座」は廃刊となり、翌年、単行本として刊行した。

 訃報を聞いて、なぜかいっしょに呑み歩いた酒場や屋台のことばかりが思いだされてならない。酒杯深更におよべば往年の無頼ぶりがひょいと顔をのぞかせることもあったが、とりたててシリアスな話をかわしたり、議論になった覚えはない。
 しかし、わが胸のうちを吹き抜けるこの喪失感はなんだろう。仕事はちがってもたがいに同時代を全力で走りぬけてきた、昭和の子の〝同志〟のような思いがあったことに気がつく。

「三十歳で東京へ出てからは、ひたすら馬車馬のように働いてきた。しかし、六十二歳の誕生日も近く、だいぶ草臥れているけれども、これからはライフワークに取り組むつもりだ」

 佐木さんは『もう一つの青春』のあとがきにこう記している。
 冗談めかして「老人の恋愛小説を書きたい」ともらしたことがあったが、ライフワークはなったのだろうか。早過ぎるその死を惜しむばかりである。
 
 
 

こんなのもアリマス

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