連載コラム: 『本のある生活』 2016.01.13

第246回 昭和44年1月18日のこと

前山 光則

 年が明けて間もないある日、テレビで昭和歌謡の特集番組を観たのだが、昭和44年に流行ったカルメン・マキ「時には母のない子のように」や藤圭子「新宿の女」などの話題のとき、画面に東京大学の安田講堂が映し出された。安田講堂へ向けて、警視庁機動隊が壮んに放水している。催涙弾も飛んでいるようだ。これに対して安田講堂の方では、ヘルメットを被った学生が窓から顔を覗かせているのが見える。火炎瓶を投げているかも知れない。機動隊が講堂内に立てこもる全共闘学生たちを排除すべく作戦を行っており、学生たちは抵抗を続けている、という光景である。
 当時、法政大学の二部(夜間部)学生で、昼間は中央区京橋にあった雪華社という小出版社で編集の手伝いなどに従事していた。ただ何かと人間関係が難しく、給料も少なく、大学への授業料納付も滞りがちになっていたため、1年3ヶ月勤めた段階で思い切って辞めた。会社勤務最後の日が、昭和44年1月18日だった。午後5時過ぎ、会社の人たちに挨拶をして外へ出た。まっすぐ大学へ向かうつもりだったが、東京大学方面が騒然としていると知って国電御茶ノ水駅で下車した。すると、あたりは催涙ガスが立ちこめており、眼がチカチカ、ヒリヒリしてならない。あのとき、用心のためすでにレモンを持参していた。レモンを潰して、汁を出し、目に塗った。すると目が楽になったので、東京大学方面へと本郷通りを歩いて行ったのだった。そして、赤門前からすれば道路の向かい側にしばらくいたのだが、まわりは機動隊員ばかりである。わたしの他にも野次馬はいたが、よくぞまあ退去を迫られなかったものである。だが、どうもその時刻、つまり6時前頃、攻防戦はいったん休止の状態だったようである。攻防戦の決着がついたのは、確か翌日になってからのはずだ。少なくともわたしが居た20分ほどの間、激しいせめぎ合いはなかった。ただただ催涙ガスがただよっており、講堂の方からは学生たちの罵声が届いていた。道路はほとんど交通止め状態で、火炎瓶のかけらや石ころなど雑多なものが散乱していた。
 あの時、こうしたありさまに見入りながら、明日からどうやって飯を食うかの心配をしていた。会社を辞めて、次の仕事の当てが全くないわけではなかったものの、当分は無収入で過ごさねばならなかったのである。安田講堂に立てこもっている連中に少なくとも反感は持っていなかった。むしろ見ていて血の沸きたつ感じだった。一方、すぐ近くにいる機動隊には、敵視したい気分があった。といっても、安田講堂の中に飛び込んで全共闘の彼等と一緒に行動したいわけではなかった。あの頃、自分の通う大学も紛争が続いていて、しょっちゅう休講だった。世の中全体が落ち着いていなかったのだ。でも、日々、活気はあったなあ。……つい昨日のことだったかのように当時のことが思い出されるのだった。
 
 
 
写真 真冬の蓮華草

▲真冬の蓮華草。近所を散歩していて見かけた。もしかして春の兆しか? いやいや、暖冬気味なので狂い咲きしたようである

 
 
 

こんなのもアリマス

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