第四回 維新の庵

浦辺登

『南洲遺訓に殉じた人びと』4
 
 薩摩藩の定宿だった松屋だが、もう一つ、頭上に大きな看板がある。「維新の庵」と記された畳一枚弱の大きさだが、不思議と、この看板に気付く方は少ない。これも、やはり、清水寺の貫主の手跡。
 ここで、この「維新の庵」という看板を目にして、やはり、遠来の客は不思議な顔をする。維新、つまり明治維新の舞台は京都と思い込んでいる方が多いからだ。なぜ、太宰府が維新に関係あるのか納得がいかない表情。呆然と看板を見上げているので、中に入りましょうと促して松屋の喫茶室に誘う。
 この喫茶室の壁には、西郷隆盛、大久保利通、月照、平野國臣の書簡(レプリカ)がある。すんなり読み下すことができるのは、名前程度で、手紙の内容にまでは踏み込めない。こういった時、本格的に古文書を読み解く修練を重ねておくべきだったと悔やまれる。古文書読解は、日々の積み重ねと勢いしかないのは、初級講座でいやというほど経験した。ゆえに、リタイアしたのだったが。
 幸い、月照の書簡には読み下しの現代文が付されている。

 《ことの葉の花をあるじに旅ねするこの松かげを千代も忘れじ》 月照

 匿ってくれた松屋主人に対する感謝の言葉だが、「松かげを千代も忘れじ」は、松屋に匿ってもらった事は千年も忘れないという意味になる。別離の言葉であり、永遠(死)の別れの言葉にとれないこともない。
 もし、幕府のお尋ね者である月照を庇護したとなると、松屋主人がどのような事になるか分からない。いくら薩摩藩の定宿とはいえ、月照を匿うことは危険な行為だった。
 ただ、ここで幸運なことに、月照が薩摩に落ちていく直前、ある驚きの出来事が起きた。安政五年(一八五八)十月十八日、勝海舟率いる長崎海軍伝習所の咸臨丸、エド号(後の朝陽丸)の二隻が博多湾にやってきたからだった。さらには、オランダ人教官カッテンディーケまでも同乗していた。
 これは、偶然かどうかは分からない。が、しかし、カッテンディーケの太宰府天満宮参詣が組み込まれていたことから推察すると、何者かの計略ではないかと勘繰りたくなる。
 
 
 
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▲「維新の庵」扁額(松屋)