連載コラム: 『石にきざむ』 2017.02.06

第七回 七卿記念碑から

浦辺登
 
『南洲遺訓に殉じた人びと』7
 
 五本の筋が入った塀、風格のある門構えの延寿王院だが、不思議と参詣客や観光客の目にとまらない。太宰府天満宮宮司の西高辻家の表札もあるが、天満宮の付属施設のようにしか思われていないようだ。そんな印象もあってか、門前の「七卿記念碑」も目立たない。レリーフが嵌め込まれた碑だが、風化による文字の判読が難しいことも一因かもしれない。案内看板の類があれば、容易に理解できるのにと残念に思う。
 この七卿記念碑はいわゆる「七卿落ち」を解説している。
 嘉永六(一八五三)年、アメリカのペリー艦隊が浦賀沖に来航し、その後の日本は勤皇、佐幕、開国、攘夷と、各論入り乱れる状態だった。そんな中、文久三(一八六三)年八月十八日、急進的な尊皇攘夷派の七卿が京の都を追われ長州に下り、さらに大宰府へと西下してきたのだった。まるで、かつての菅原道真が政敵に都を追われて大宰府に下った様によく似ている。
 当初、七卿での西下だったが、錦小路頼徳(にしきのこうじ・よりのり)は病没し、澤宣嘉(さわ・のぶよし)は途中で失踪、潜伏したと記されている。ゆえに、残る五卿が延寿王院に到着した。レリーフに描かれる七卿の姿は、お公家さんの華やかな装束とは異なり、落ち武者に近い。夏とはいえ、降りしきる雨を蓑笠で防ぎ、草鞋は泥まみれ、徒歩での逃避行だった。ようやく、大坂(大阪)から長州までは船に乗ることができたものの、前途多難の旅だった。
 この「七卿落ち」の際、長州の桂小五郎(木戸孝允)は京都見回りの新撰組の取締りをかいくぐり、京都に潜伏していた。
 この「七卿記念碑」の裏面には、建立の由来が記されている。飛騨人の加藤鎮之助が東久世通禧、土方久元の両伯爵の知己を得、七卿落ちの史実が埋没することを憂えたことからだった。東京の萩原与兵衛、越中の岡本清右衛門、太宰府の吉嗣拝山がこれに賛同したとある。この賛同者の中で、太宰府の吉嗣拝山(よしつぐ・はいざん)という名前があることに安堵感を覚える。
 
 
 
七卿記念碑

     ▲七卿記念碑

 
 
 

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