連載コラム: 『石にきざむ』 2017.02.20

第八回 平野國臣の思い

浦辺登
 
『南洲遺訓に殉じた人びと』8
 
 京の都を追われた七卿だが、そのなかの澤宣嘉は文久三(一八六三)年十月十二日に福岡脱藩浪士の平野國臣とともに生野(現在の兵庫県朝来市)で決起した。形勢を挽回しようとするとともに、生野には幕府直轄の生野銀山があり、ここを征圧することで倒幕の軍資金を得ようとの目論見があったらしい。しかしながら、この「生野の変」は大将格の澤宣嘉が失踪したことで失敗に終わった。
 太宰府の「松屋」に隠れていた勤皇僧月照を薩摩まで送っていったものの、西郷は月照を抱いて入水を図った。このことで、西郷は生きのこったものの、月照は亡くなってしまった。その西郷、月照入水の現場にいた平野だけに、幕府を倒し、新しい政府を樹立しなければ押し寄せる諸外国に対抗はできないと気持ちを新たにしたのではないだろうか。
 翌年の七月、いわゆる「禁門の変」によって京都市中は大火となり、そのどさくさの中で平野は殺されてしまった。その平野は今、生誕地跡に建立された平野神社に祀られている。その社殿左わきには平野が万延元年に詠んだ歌の碑がある。

 《わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば烟はうすし桜島山》

 平野神社拝殿の左わきにその歌碑はある。
 福岡市を東西に貫く明治通りという幹線道路に面して居ながら、さほど、地元民は関心を抱かない。むしろ、平野が詠んだ「わが胸の・・・」も歌は恋の歌に取り違えられたりもする。
 平野は政治改革を強く主張するため、何度か牢に投じられた。外部との連絡手段を遮断する意味もあり、獄中では筆、硯、紙を取り上げられる。そのため平野は落とし紙(トイレット・ペーパー)を紙縒りにし、飯粒を糊にして紙縒り文字の手紙をしたためた。その現物を平野神社を管理する鳥飼神社で見せてもらったが、執念にも近い根気のいる手紙だった。ここまで、国の行く末を思い至る心情に、果たして現代の為政者、大衆は応えているだろうか。
 
 
 
EPSON MFP image

▲平野神社(拝殿、歌碑、顕彰碑)

 
 
 

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