第十二回 「石玉があった」

浦辺登
 
『南洲遺訓に殉じた人びと』12
 
 もしかしたら、銅像があるかも。そんな思わせぶりの加藤司書の案内看板だが、実際にその場に行ってみると、口があんぐりと開き、肺の中の空気が漏れそうになる。
 まるで、筥崎宮「放生会」の見世物小屋で騙されたかのような、大きな石玉があるだけだった。これが本当の「玉が、あった。たまがった」(博多弁で「びっくりした」の意)である。
 銅像が建立されていた台座の上に、石玉がある。何も無いよりも、何かを意味するとしてなのだろう。が、しかし、脇に立つ「加藤司書公……」との石柱がわざとらしい。石柱に彫りこまれた「加藤司書公銅像」の「銅像」の文字が塗りつぶされているのだ。かつては銅像があったが、肝心の銅像が無いため「皇御国(すめらみくに)」の板碑をもって歌碑としている。
 さらに、その歌碑左わきには立派な石碑が建立されている。昭和四十(一九六五)年十月二十五日の日付があり、進藤一馬翁(元福岡市長)の名前がある。加藤司書、筑前勤皇党の百年祭での記念碑だった。薩長同盟の事前工作である薩長和解を主導し、三條実美ら五卿を太宰府の延寿王院に迎えた筑前勤皇党がいたことで、明治維新の大業は成就した。そのことを知らしめる碑である。
 福岡市内にはいくつもの銅像が再建され、新たに建立された。博多人形を模したものもあれば、民謡の「黒田節」で有名な母里太兵衛もあるが、母里の銅像は博多駅前と光雲神社境内と二体もある。その他、東洋のアリストテレスこと貝原益軒、能楽喜多流の梅津只圓(うめづ・しえん)まで様々。
 さらに、玄洋社関係として廣田弘毅、中野正剛、進藤一馬とある。胸像も野村望東尼から東郷平八郎まである。
 しかし、なぜか、この福岡藩家老である加藤司書の銅像だけは再建されないままとなっている。「歴史は勝者によって作られる」の言葉通り、明治維新に功績がありながらも、敗者の扱いを受けた福岡藩だからだろうか。薩長同盟は坂本龍馬ではなく、筑前勤皇党の薩長和解工作があっての実現だった。フィクションとノンフィクションが混在する現代日本の歴史に加藤司書は埋もれたままで良いのだろうか。
 
 
 
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▲銅像の文字が塗りつぶされた加司書公歌碑全景