連載コラム: 『本のある生活』 2017.08.04

第304回 久しぶりに奄美へ

前山 光則

 久しぶりに奄美へ行ってきた。
 友人が、7月7日から9日にかけて鹿児島県奄美市や瀬戸内町で「島尾敏雄生誕100年記念祭」が催されるゾ、と教えてくれたのである。いや、それは面白い、ぜひ行ってみたいと思って、思いきってイベントへの参加を申し込んだのであった。それで、そのことを奄美市在住の旧知の女性Nさんに電話で喋ったら、たちまちてきぱきと飛行機便やホテルの予約までしてくれて、大助かりであった。
 島尾敏雄氏は大正6年に横浜市に生まれた後、神戸で育ち、長崎や福岡で学生生活を送る。第二次世界大戦末期に九州大學を繰り上げ卒業して特攻要員としての訓練を受け、第十八震洋隊(180名余)の隊長として奄美の加計呂麻(かけろま)島に駐屯する。ここでの体験は、「孤島夢」「出孤島記」「出発は遂に訪れず」などの作品に書かれている。加計呂麻の基地にいて、爆薬を装填したボート(震洋艇)による特攻死を覚悟しながら緊迫の日々を過ごす一方で、現地の女性ミホさんと熱烈な恋をし、戦争が終わってからは結婚した。ところが、東京で生活するうちに自身の不倫がきっかけとなってミホ夫人が精神を病んで、長篇小説『死の棘』に描かれたような壮絶な事態が生じ、名瀬市(現在の奄美市)へ移り住む。そして20年間、名瀬の図書館長を務めながら創作活動を続けた。奄美での経験をもとにして日本列島を広く見渡す「ヤポネシア」論も展開したのであり、だから奄美と島尾文学は深い縁(えにし)で結ばれている。生誕100年というだけでなく、今年は氏が亡くなって30年目でもあり、ミホ夫人の死から数えれば10年経つこととなる。島尾文学や夫妻と奄美との関わりの意味を見直すためには、今度の「島尾敏雄生誕100年記念祭」は実にタイミング良いイベントとなったわけである。 
 7月7日、奄美空港へ着いたのが午後2時半過ぎであった。すでに奄美地方は梅雨明けしており、かんかん照りだ。暑いけど、じめじめしていなくて清々しい気持ちだ。バスに乗り込んで奄美市へと向かう。照りつける太陽の下、左手に紺碧の海が広がり、右手には砂糖黍畑や山々が続く。あちこちにアダンやパパイヤやガジュマルやらが見えて、ああ南島に来たなあと胸が弾み、ついつい頬が緩んでしまう。
 一時間弱で奄美市の中心部へ着いた。宿へ入って、しばらく休憩。部屋で寛ぎながら、奄美へ来るのはこれで5度目かな、などと想いを巡らす。初めて来たのは、昭和46年の真夏、鹿児島港から照國丸という船に乗り、人間だけでなく豚や牛やらもブーブー、モーモーと同宿する中で一晩過ごして名瀬港に着いた。港近くの民宿に泊まって一週間近く島の中をうろついたのだが、それは島尾敏雄氏の書いた小説やエッセイに促されてのことだった。島尾氏は、当時、名瀬市(現在、奄美市)の図書館長をしておられて、実際、行ってみるとちょうど氏の講話が行われているところであった。一番後ろの席で講話を聞き、手を挙げて質問もしてみたが、かといって近くに寄って行って直かにくわしく話を伺う勇気は出なかった。要するに内気で、引っ込み思案だったのだ。その代わり、暑い中、島のあちこちをテクテク歩き回った。よくぞ熱中症にならなかったものだ。へばりそうな時は、奄美特有の飲み物である冷やしミキを買って飲んで、元気を出していた。町はずれを歩いていると、あちこちでリズミカルな機織りの音が聞こえた。大島紬である。それが、お昼の12時にはパタリと止む。そして、午後1時が来ると、また一斉に聞こえはじめるのであった。家々の軒先に電灯が並んでいるのも珍しかったが、聞けばそれはハブ除けのためなのだった。ああ、ここはハブの棲息する島なのだ、と実感した。ハブとマングースが決闘する見せ物も名瀬郊外のどこかで観た。
 滞在中、だいぶん遠くまで行ってみたこともある。名瀬港から西へ海岸伝いに歩いて、やっとの思いで峠を越えると、海水浴場へ出た。朝仁浜である。そこの茶店に入ったら、ごっつい顔の主人がいて、店の奥には本棚があった。ここでのことはこの連載コラム第216回「昭和46年に出会った人」で触れたことがあるが、奥の方の棚に埴谷雄高や野間宏や島尾敏雄、吉本隆明といった人たちの本がギッシリ並んでいて、茶店としてはいささか異様であった。店の御主人は脇野素粒さんだった。『流魂記―奄美大島の西郷南洲』『句と文 エラブの礁』といった著書も遺した郷土史家で、俳人でもある。島尾氏はエッセイ「『エラブの礁』のために」の中で、脇野氏との交友は戦中だけでなく戦後も名瀬図書館の常連で来てくれていて、しばしば会うなど親密に続いた、と述懐している。脇野氏は、戦時中は加計呂麻島の第18震洋隊に所属して島尾敏雄隊長の部下であったのだ。そして戦後は一度鹿児島へ帰っていたがまた奄美へ舞い戻り、商売のかたわら郷土史研究や俳句活動などをやっていたらしい。脇野氏から色々と話が聞けて、まったくあの時は運が良かったなあ、と、46年前のことが懐かしく思い出された。それから、民宿で食べた料理のことはあまり覚えていないが、黒糖焼酎のうまかったことと、それからパイナップルの味噌漬け、あれは珍しくて、カリカリと歯ごたえよかった、と、感触が今でも甦る。
 そんなことを思い出しているうちに、Nさんが宿へ訪ねてきてくれた。彼女はかつて熊本市で旅行会社に勤めていたのである。快活な性格が誰にも好かれて、わたしらの行きつけの居酒屋カリガリの客の中でマドンナであった。彼女が11年前に結婚し、奄美で式を挙げた折りには、熊本の悪友たちは団体で島へ押しかけて祝福したのであった。ロビーで久しぶりに会ったのだが、彼女は、「島尾敏雄生誕100年記念祭」第1日目の催しである映画「海辺の生と死」昼の部上映を観ての帰りであった。「とても良かったよ!」と目を輝かせて言う。それで、わたしも、夕方、その映画を観に奄美文化センターへ出かけた。観客は、たぶん1000名を越えていた。島尾敏雄氏の書いたものや奥さんのミホさんの『海辺の生と死』などをもとにして作られた映画で、満島ひかり・永山絢斗主演、そして島の人たちもたくさんエキストラ出演している。上映に先立って監督の越川道夫氏と満島ひかりさんと島の子どもたちが登壇し、挨拶した。満島・越川両人によるトークショーも行われた。満島さんはキラキラ耀くばかりの女優さんだ。実際、映画は2時間半という長い作品だが、満喫できた。島の女性になりきった満島ひかりさんの演技が、とても魅力的である。特に島唄をうたう時、あんまり上手くて自然で、吹き替えかと思い込んだほどだったが、そうではない。彼女はちゃんとマスターしてうたっていたのである。
 上映終了後、すっかり満足していた。映画を見終えた人たちがガヤガヤとしていて、夜道は賑やかだった。宿まで30分ほど、月や星屑を眺めながら、映画の余韻を愉しみながら、ゆっくり歩いて帰った。
 
 
 
①離陸直後

▲離陸直後。鹿児島空港を飛行機が飛び立った時に車輪の引っ込むのが見えて、なんだかスリリングだった

 
 
②奄美空港からバスに乗る

▲奄美空港からバスに乗る。飛行機から下りて後、あまり待つまでもなくバスに乗り込むことができた。乗客は結構地元の人が多く、運転手さんと親しく喋る場面が見られた

 
 
③トークショー

▲トークショー。主演女優の満島ひかりさんと監督の越川道夫氏。奥の方に司会役の人が映っている。はじめ神妙な司会ぶりだったが、満島ひかりさんの叔母にあたるのだという。後では親戚ならではのくだけたやりとりも見られた

 
 
 

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