連載コラム: 『本のある生活』 2017.08.28

第306回 一たす一も知らないで

前山 光則

 7月8日の午後は、昼御飯が済むとまた海上タクシーが来てくれて、みんなを20分ほどかけて同じ加計呂麻島の中の生間(いけんま)へ連れて行ってくれた。ここは波止場も埠頭もあって、ちゃんとした港である。すでにバスが待ってくれており、乗り込むと、バスはゆるゆると峠を越えて島の南側の諸鈍(しょどん)というところへみんなを運んで行った。その間、わずか10分しかかからなかったので、涼しい時季ならば歩いて行けそうな距離であろう。そして、諸鈍の加計呂麻島展示・体験交流館の中で映画監督・小栗康平氏の講演を聴き、講演の後はその小栗氏が平成2年に制作した映画「死の棘」の上映も行われた。講演は観念的で、正直なところ難しく、疲れていたせいもあってか眠たくなってしまう話であった。映画の方は、会場が狭くて全員は入れそうにないし、自分自身はすでに観たことがある。だから遠慮して、その代わり体験交流館内を見学した。ここは、平家落人の平資盛(たいらのすけもり)が村人に広めたとされる民俗芸能・諸鈍芝居(ショドンシバヤ)のことが、よく分かるように展示されている。諸鈍芝居にはガクヤ入リから始まってサンバト(三番叟)、タカキ山など11番の演目があり、その中でキンコウ節は「徒然草」の吉田兼好にちなんだ芝居、タマティユというのは人形劇だそうだ。コミカルなものもあるらしい。島の大屯(おおちょん)神社で旧暦9月9日に上演・奉納されるそうで、一度じっくり本物を観てみたいものだ。
 展示物をひとわたり見終えてロビーで休憩していたら、島尾敏雄氏の長男・伸三氏がやはり寛いでおられた。それで、話しかけて、お父さんのことやご自身の幼少時のことなどをあれやこれやゆっくりと聞かせてもらえた。たくさんの話の中で、特に嬉しい収穫があった。それは、伸三氏が著書『月の家族』の中で回想している子どもたちの歌のことである。氏は昭和23年7月に神戸で生まれた後、やがて27年3月に一家が上京し、東京都江戸川区小岩町に住む。それが、昭和30年になって名瀬市(現在の奄美市)へ移住することとなったから、伸三氏は転校して奄美小学校で学んでいる。それで、当時の名瀬市であるが、『月の家族』によれば同じ市内の学校でありながら商業地区に古くからある名瀬小学校と、後になって農業人口の方が多いところにできた奄美小学校は仲が悪かったそうだ。奄美小学校の子は名瀬小学校の子たちを「旧校野郎(キュッピ・ダグ)」、反対に名瀬小の子は奄美小の子たちを「新校野郎(シンコ・ダグ)」というふうに互いに罵っていた。しかも、歌にまでしてバカにし合った。
 
……………………………………………………………………………………
 
 一年生や幼稚園の子供にまで対抗意識があって、どこの誰が考えついた歌なのか、
「ナゼコーの先生はー♪、一たす一を知らないでー♪、黒板叩いて泣いていたー♪」
 という歌を唄って歩いていました。
「ナゼコーの先生は、本当に一たす一を知らないの?」
 と、小学校の裏の校庭にあった奄美幼稚園へ通う妹が、本気で尋ねるのでした。
 
……………………………………………………………………………………
 
 この部分を最初読んだ時、アッと声をあげてしまったのである。「どこの誰が考えついた歌なのか」とあるが、ほんとにこの罵り歌はいつどこで、どんな子たちがうたいはじめたのであったろう。実はわたしなども経験しているわけで、少年の頃つまり昭和30年代、熊本県人吉市で、東小学校生と西小学校生が川を挟んでいがみ合っていた。東小学校区にいたわたしたちは、川べりから対岸へ向かって、「西校の先生はー♪、一たす一も知らないでー♪、黒板叩いて泣いているー♪」と声を張り上げていた。つまり、相手そのものを貶(けな)せば良いようなものを、なぜか相手校の先生を愚弄するという発想なのである。喧嘩をする前にファイトを燃やすには、これがいつも必要だった。
 それで、歌い方だが、4拍子で「レドレ、レドレー♪、ミソソミ、ミレミー♪、ミミソミ、ミレミー♪」というふうになる。これを伸三氏の前で口ずさんでみたら、目を輝かせて「はいはい、そういう歌い方……」とのこと。いやはや、それならばあの頃、奄美の子も人吉盆地の子も似たような発想の詞を、それもまったく同じ節回しで歌い上げて、相手校への対抗意識を燃やしていたことになる。嬉しくなるではないか。
 しかも、実は黒木重太郎著『村の風土記』(私家版)という本によると、昭和20年、戦争が終わる直前の宮崎県東郷村(現在の日向市)幸脇(さいわき)国民学校の生徒たちは、耳川を挟んだ対岸の余瀬(よせ)村(現在、日向市)の子どもたちと盛んに石投げ合戦をやっていた。その折り、双方で「○○学校の先生は、一たす一を知らないで黒板たたいて泣いていた」と声を張り上げ、罵りあっていたという。他にも九州内でいくつか事例が確認されており、どうもこの歌は少なくとも九州内の各地で、戦争が終わろうとする頃にはすでに結構流行っていたものと思われる。島尾伸三氏と語り合って、そのような共通の話題に触れることができた。
 その日は、奄美市へ戻ってからはNさん一家と会った。誠実で働き者の御主人に久しぶりに会えたし、2人の娘さんがまたまことにかわゆい。娘さんたちが大好きだという名瀬港近くの回転寿司屋へとおもむき、みんなでたらふく寿司を食って、ワイワイはしゃいで愉快に夜を過ごしたのであった。
 
 
 
①呑之浦から船が出る

▲呑之浦から船が出る。海上タクシーが、今から参加者たちを呑之浦から生間へと連れて行ってくれるのである。海岸に壕があるのが見えるが、震洋艇を格納するためのものだったという

 
 
②加計呂麻島展示・体験交流館

▲加計呂麻島展示・体験交流館。生間からバスで峠を越え、今、諸鈍の交流館へ着いた。ここは平成27年に建てられた施設

 
 
③交流館の展示物

▲交流館の展示物。諸鈍芝居に関する展示・説明である。演じる人がつけている紙製の仮面は「カビディラ」というのだそうだ

 
 
④交流館の外の風景

▲交流館の外の風景。交流館2階から見た島の南側、諸鈍湾である。湾は深いので、まだここからは湾の外側は見えない

 
 
⑤古仁屋の港へ

▲古仁屋の港へ。古仁屋は瀬戸内町の中心をなす港町で、人口は5000人余とのこと。ここへは以前にも2度来ていて、今回は10数年ぶりだったが、以前とあまり変わらないなあ、と、懐かしく思った

 
 
 

こんなのもアリマス

Leave a Reply

(必須)

(必須)


Copyright © 2010 GenShobo. All Rights Reserved.