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第315回 帰る前に、銀座へ
前山 光則
11月7日の朝が来て、今日も天気がすごく良い。羽田空港から熊本行きの飛行機が飛び立つ午後2時20分までたっぷりと時間があるのだが、大丈夫、行き先は決めていた。
電車を乗り継ぎ、新宿を経由して京橋二丁目へ出たのが10時半頃であった。地下鉄から下りて地上へ上がると、そこらは終戦直後までは京橋川があったあたりで、元河畔だったところに「江戸歌舞伎発祥之地」「京橋大根河岸青物市場蹟」といった大きな石碑が建っている。つまり、運河があり、はるかな江戸の昔には川岸に芝居小屋があったり市場が賑わっていたりしていたのだそうである。現在はビジネス街でもあり、また画廊なども多く見受けられる。実際、石碑の建つ公園の前にあるビルの1階には椿画廊というのがあって、ロック歌手で画家の恒松正敏氏の個展が開かれていた。フラリと入ってみたのだが、奥の1室に恒松氏の小品が全部で30点ほどだったろうか、展示されていた。鯉や鯰などを描いた具象画も、氏の傑作「百物語」シリーズを彷彿とさせるものも観られた。観ていて、都会のど真ん中に居るのが信じられないくらいに気持ちが静まってくるのだった。作者本人は自宅にいるというので、画廊を出てから「京橋大根河岸青物市場蹟」の碑の前で電話してみた。元気そうであった。またそのうち会いましょうと言って、電話を終えた。
さて、それからは銀座四丁目の歌舞伎座裏までブラブラと歩いたのであった。四丁目というが、歌舞伎座のあるあたりは築地寄りの一帯であり、東銀座と呼ぶ方が分かりやすい。たいして距離はないので、のんびりした歩き方であっても20分ほどしかかからない。歌舞伎座裏の路地の一画、かつて呉服屋の土蔵として使われていた建物を店舗としている「銀之塔」へ入った。ここは昭和30年の創業以来、一貫してビーフシチューとグラタンしかメニューにないという変わった料理店である。洋食の店でありながら、暖簾がかかっており、それを分けて店内に入ると、畳敷である。時刻は12時に近かった。客席は半分ほど埋まっていた。正午にかけてどんどん客が混んで来るだろうからと思い、卓袱台程度の二人連れ用の席に座ろうとした。そしたら、店のおかみさんが即座に「どうぞ、そちらへ」と、四人座れる広い方を勧めてくださったではないか。「でも、良いんですか」、尻込みしたが、「構いません」とおっしゃる。
座ると、20歳前後の若い女店員が焙じ茶を持ってきてくれた。ビーフシチューを注文し、トイレへ立とうとしたら、「済みません、今、他のお客様がご使用なさってまして」とのこと。それで、出された焙じ茶を「この茶は昔通りにうまいなあ」と思いながら啜っていたら、やがて女店員はわざわざわたしのところへやって来て、「今、トイレが空きました。どうぞ」、教えてくれた。いやはや、気が利く店員さんだなあ。俺はこんな行き届いた接客ができなくて、迷惑ばかりかけたのだったなあ、と、大いに恥ずかしく顧みながらトイレを済ませた。そして、ビーフシチューが出て来る。土鍋はまだグツグツ沸き立っている。これを、箸とレンゲを使って食するのである。よく煮込まれたビーフ、口に入れるときのやわらかな感触がたまらなく良い。ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、そして彩りとしてトッピングされたエンドウ、いちいち摘んで行く。小鉢が4つあって、煮物やお新香である。これに御飯がつく。
具を平らげてしまってから、おもむろに土鍋の中に御飯を全部放り込み、レンゲでよくかき交ぜてから食べる。「シチューおじや」といったノリであり、わたしはこのやり方が大好きだ。それを食べ尽くした後、初めて小鉢のお新香へ手を伸ばす。大根とキュウリを用いたぬか漬け、これがまたお口直しとしてサイコー。おかみさんが自分で漬け込む、純粋自家製のものなのである。久しぶりのビーフシチュー、これで2600円だ。学生時代の2年3ヶ月、毎日口にした味だが、ほんと、ちっとも変わっていないので嬉しい。
シチューもさることながら、ぬか漬けの味がまた懐かしくてならなかった。勘定を払うとき、店のおかみさんに「シチューがおいしいのはもちろんのことですが、おしんこの味が相変わらず良いですね」と言ったら、嬉しそうな顔をされた。半世紀前、ここで2年3ヶ月アルバイトさせてもらいました、と明かしたかったが、気が引けて止めた。すっかり代替わりしてしまっているのだから、今のおかみさんにそのようなことを言ってもピンと来ないだろう。それに、女店員さんのテキパキとした働きぶりに比べてわたしなどいつもモタモタして叱られてばかりであった。とてもじゃないが、黙っている他なかった。
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