連載コラム: 『本のある生活』 2018.01.19

第317回 喫茶店にて

前山 光則

 1月8日の朝のことである。
 前日に東京から帰って来たばかりでまだ疲れが残り、気分もすぐれなかった。東京での4日間、しんどいことばかり続いたのである。朝食後しばらくしてから行きつけの喫茶店に新年の御挨拶を兼ねて顔を出したら、カウンターの上に平鉢が置かれて何やら野草の類がこんもりと盛りつけてある。店のマスターは「昨日は七草粥の日だったから」と笑い顔である。なるほど、1月7日は七草粥を食べる日なのだ。もっとも「七草粥」とはいえ、あれは旧暦での話。新暦でセリ(芹)・ナズナ(ペンペン草)・ゴギョウ(母子草)・ハコベラ・ホトケノザ(タビラコ)・スズナ(蕪)・スズシロ(大根)のすべてを揃えるのは無理だろう。それを言ったら、マスターは、
「そう。だから、気持ちだけですたい」
 頷いた。正式に七草を揃えるのは無理だから、マスターの息子さんがあちこち山野を歩き回り、野草を採ってきてそれらしく盛りつけたのであるらしい。確かに小鉢には七草でないフキノトウやツクシ(土筆)まで盛られており、これはちょっと驚きだった。フキノトウは、南向きの山の斜面だと日当たりが良いから年が明けないうちに見つけることが可能だ。しかし、ツクシが1月上旬に生えているなどとは今まで見たことがなかった。
「いや、うちの息子は自然児で、ですなあ、こういうのを探す名人で」
 マスターは相当に自慢げである。そこで、そうか、いよいよこれからアサリ貝がうまくなってゆくわけだな、と思ったのだった。
 もう何年前になるだろうか、早春の頃に球磨川河口の漁港あたりを歩いていて老漁師がたくさんのアサリ貝を洗っているところへ出会わした。そこで、
「アサリ貝がずいぶん採れますね」
 と声をかけたら、漁師さんは、
「うん、ツクシ貝は今が一番うまいけんね」
 と答えたのだ。はじめ理解できなかったが、なんでも漁師さんによれば、
「ツクボシさんが生え出る頃のアサリは、一年中で最も肉厚で味が良か。だから、この時季のアサリはツクシ貝と呼ぶ」
 のだそうであった。「ツクボシさん」だとか「ツクシ貝」という呼び方に感心した覚えがある。そのような数年前のことを、
「ゴッツイ顔の漁師さんが、ツクシをツクボシサンと言ったし、アサリ貝のことはツクシ貝と呼ぶわけですよ」
 とマスターに語ってみた。すると、カウンターの端っこで紅茶を飲んでいた妙齢の御婦人が身を乗り出して、
「いやあ、懐かしいわあ。そうですよ、八代ではツクシをツクボシサンって呼びますしね、そう、ツクシ貝ってアサリのことですよ」
 と嬉しそうだ。マスターが相槌を打って、
「そぎゃんです。春先のアサリ貝はツクシ貝と呼ばんと、なんか実感が湧かんですもんな」
「ツクボシサンも、ツクシ貝も、久しぶりにそういう言い方を聞きましたですよ」
「こんな話をしよるうちに、春は、間違いなく来るとですばい」
「そうですよねえ」
 ツクシ貝とかツクボシサンだとか、なんという愛嬌ある言い方であることか。御婦人とマスターのやりとりを聞いていて、八代育ちでないわたしには、八代地方を再認識させられる優雅さが感じられた。4日間東京へ行って実に慌ただしい時間を過ごし、青息吐息で帰ってきた。疲れ切った気分のままコーヒーを啜りに行ったわけだが、たったこれだけの話題でゆったりと心が洗われる気分になることができた。
 でも、今はまだいちばん寒い時季だ。春よ、早く来い。
 
 
 
七草

▲七草。喫茶店のカウンターに3日ほど置かれていた。どこにツクシが混じっているか、分かるだろうか?

 
 
 

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