連載コラム: 『本のある生活』 2018.02.27

第320回 少年の頃の山々は

前山 光則

 前回は保育園で発行されている年誌を読んで幼時を思い出したのだが、最近はもっと少し大きくなってからの記憶が甦ってきた。
 1月23日の夜、八代市坂本町に住む溝口隼平氏宅で昔の写真を観る会が行われ、友人2人と共に参加したのだった。溝口氏はまだ30歳代後半の若い人で、坂本町に残る古い写真の収集をつづけている。坂本町の球磨川には瀬戸石ダム(昭和33年竣工)があり、つい最近までは6年前から撤去工事の始まった荒瀬ダム(昭和30年竣工)の堰堤も存在した。この両ダムの建設される前後の頃の写真を、今回、スキャンしてスライドで100枚近く観せてくれたのである。
 実に克明に当時の様子が辿れる。わたしなどは球磨川をずっとさかのぼった人吉市の町なかで育っているから、下流の坂本町のことは無知に等しい。でも、それでも写真に出てくる老若男女の顔つきや身なりなどを目にするだけで、昭和30年代前後の貧しいけども健康的な雰囲気が画面に現れていて、ほんとにあの頃はそうだった、と懐かしさがこみ上げてくる。ダムを造るために川の両岸がコンクリートで塗り固められていく様子が映し出されると、天然の流れがこうして次々に人工的なものとされたのだな、と胸が痛んだ。20人ほど来ていた現地の人たちの反応はさらに熱く、具体的で、1枚ごとに声が上がった。
「ほれ、一番右手に居るのは○○婆さんたい」
「後ろに見えるのは××さん宅。ダムで立ち退く時、取り壊されたとだったもんなあ」
「ほれ、葉木(はき)の川と球磨川本流との合流点。ここが、ダムが出来てから土砂がえらい溜まるようになって、水害が増えた」
「瀬戸石駅前たい。うん、昭和40年7月2日の大水害で駅前の家は流されてしもうた」
「あれ以後、駅前は嵩(かさ)上げ工事があったとよなあ」
「肥薩線は、しかし、よう測量して造ってある。土砂崩れが起きんし、どぎゃん水がいみって(増えて)来たっちゃ、水が線路を越えることはなかったからなあ」 
 等々、聞いていると一つ一つが流域の昭和史だなと感ぜられた。
 観ているうちに、連れのI氏が言った。
「あの頃の山々、えらく禿げてますね」
 すると、すかさず現地住民の一人から、
「うん、昔はやたら山を伐りよったからなあ」
 80歳を越えた御老人であった。
「そしてな、あの頃まではまだコバ(焼畑)も多かったとですよ」
 まだ70歳を過ぎていないような男の人はそう言った。
「しかしな、やっぱあっちこっち伐りよった」
 と御老人が首を横に振る。やりとりを聞いていて、どちらも本当だろう、と思った。上流に育った人間として、自分の人吉市周辺で見聞きしたこととピッタリ重なるからである。人吉の町なかで育ったが、親戚はたいてい郊外の農山村に住んでおり、昭和20年代後半から40年代にかけて何かにつけて遊びにいくことがあった。あの頃、盆地を囲む山々は至るところで禿げていたのである。木材が高く売れていた時代だから、やたら伐られていた。あちこちで、段々畑も見られた。山村には人が結構多く住んでいた。
 ある同級生など、私立大学に入るとき多額の入学金が必要だ。すると、父親が、
「今、わが家には現金がなかたい。裏の山の杉を何本伐れば、払えるじゃろうかなあ」
 と思案しているのを目の前で見たことがある。山持ちさんは羨ましいなあ、と思った。
 乱伐されるから、山々に保水力がなくなる。昭和38、39、40年と立て続けに球磨川流域で大水害が発生したのは当然だった。40年の7月が最もひどくて、高校の一学期末考査が中止となった。生徒会で救援物資輸送を行うことになって、わたしなどもその活動に加わり、大きなリュックサックに色んな物を詰め込んで、主として五木村や球磨村方面を配ってまわった。あれは何日間続いたのだったかなあ。それから、大学時代の夏休みに帰省した折り、知り合いのおじさんが球磨・人吉地方の山を買収するので下見しに行く、荷物担ぎを手伝えと言われて一週間ほどついて回ったことがある。売りに出ていたのはたいていが禿げ山で、だからどこも大変に見晴らしが良かった。
 ――そのような具合に、あの頃のことが次から次に甦ってくるのだった。
 
 
 
白髪岳

▲白髪岳(標高1417メートル)。熊本県球磨郡あさぎり町、人吉盆地の南側に聳える山である。この山は昔も今も木々が鬱蒼と茂り、ブナの原生林も見られる

 
 
 

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