連載コラム: 『本のある生活』 2018.05.07

第326回 思い出の場所

前山 光則

 BSプレミアムの人気番組「こころ旅」について、以前に少しだけ触れたことがある。 いつも心待ちにして観ているのである。
 俳優の火野正平が愛車チャリオと共に各地を旅する番組だ。事前に視聴者から思い出深い場所や忘れられない風景について手紙を寄せてもらい、そこを訪ね当てる、という趣向である。番組が開始されてすでに7年になるが、終わる気配がない。この番組を支持するファンが多いから続くのであろう。実際、面白い。火野正平は、急坂を上がる時は愛車をいたわりながらゼイゼイ言って漕ぎ上がる。橋を渡るときなどには、高所恐怖症なのでチャリオから下りて手押しして、へっぴり腰でよろよろ進む。ガンバレ、へこたれるな、と声をかけたくなる。また、あちこちで雑魚や蛙や昆虫などの小動物と遊んだり、食べられる木の実は口に入れて愉しむ。火野正平は愛すべき自然児だ。
 感心するのが視聴者からの手紙、つまり「こころの風景」である。結婚相手と初めて出会った海岸とか、子供時代にとても危ない目に遭った場所、昔住んでいた町、あるいはかつて旅行してひどく感動した風景等々が毎回紹介される。やはり、どのような人にも必ず一つは忘れられない大切な場所や風景があるものなのだ。女房に聞いてみたら、若い頃に不知火海沿岸の海水浴場でキャンプしたことがある、その折り朝起きてテントの外へ出たら沖の方に帆掛け船が何隻も浮かんでいた、あれは今も鮮やかに目に焼き付いている、と答えた。なーるほど、それは「うたせ網漁」といって帆掛け船で出漁し、袋状の網を海中に下ろしてゆっくり航行する。そして、ある程度の時間が来たら網を引き揚げるという、独特の網漁だ。波静かな不知火の海を帆掛け船がユラユラ漂うシーンは、確かに夢まぼろしかと見紛うような美しい風景である。
 さて、わたし自身である。もし自分が「こころ旅」に手紙を出すとすれば、「こころの風景」にふさわしいものが何かあるだろうか。これが、番組が始まって以来ずっと考えがまとまらずにズルズルと時間が経ってしまった。でも、最近になってようやく一つにまとまってきた。わたしの場合、それは生まれて初めて海を見たときのこと。まだ幼稚園児(5歳)だった頃のこと、人吉市立東小学校4年生全員が八代市の白島(しろしま)海岸に潮干狩りに出かけた。兄が、4年生だった。保護者や家族もついて来てよろしいというので、父が、幼いわたしも連れて同行したわけだ。人吉は山に囲まれた盆地の町である。日頃見たこともない海へ行くというので、兄たちは興奮気味だった。連れられていくわたしなどは海への憧れも抱く反面、怖くもあった。なぜなら、出かけるずっと前から父も、兄も、

「海にはな、潮の満ち干きというものがある。潮が先の方へすざっとる(干いている)時に浜に出て、貝を掘る。これが潮干狩りちゅう遊びたい。そるばってん、知らん間に沖の方から潮がいみって(満ちて)来るとゾ。ボンヤリしとったら、海の水が押し寄せて来て、波に掠(さら)われるからな」

 こう脅すのだ。大仰で、迫力があった。だから「潮」のことが気が気でなかった。
 当時は道が悪くて、人吉から球磨川沿いに八代まで辿る約60キロが貸し切りバスで2時間半かかった。八代に着くと、干拓堤防の上を行く。すると、堤防の尖端となる地点に白島というところがある。そこは昔は小さな島だったが、明治時代に干拓事業により陸地と繋がってしまった、などとは大人になってから知った。白島には、浜辺に沿ってダンチクというのか、水俣あたりでは「アンポンタン」などと呼ばれていることを後年になって知ったが、ヨシに似た丈の高い植物がずらりと生えていたのを覚えている。渚に面して茶店があり、そこで麦わら帽子をかぶったり、リュックサックから熊手を取り出したりして身支度を整え、引率の先生の注意事項伝達が行われて後、潮の干ききった広々とした潟海へと出た。やり方をまわりの人たちに教わりながら干潟を熊手で搔いてみると、これは実に面白かった。ハマグリ、アサリ、バカガイ、カニ、ヤドカリなど、いくらでも出てくるので、小バケツはすぐに満杯になった。もっとも、笑われてしまった。カニとかヤドカリは獲物とはいえない。それに、バカガイなども、
「そぎゃんと採ってどぎゃんするか」
 と父からも兄からもそれこそ馬鹿にされた。バカガイは砂抜きするのが大変で、味もさほど良くないらしかった。それから、貝を掘っているうちに自分の拳よりも大きなカニに手を挟まれて、痛いの何の、ヒェーッと悲鳴を上げてしまった。
 ひとしきり夢中になって遊んだが、さて、気がつくと、沖の方に白い雲のようなものが横たわっている。兄が、
「あれだ、あれが潮ゾ。今から押し寄せてくる。ボヤボヤしとられんなあ」
 と言うので、途端に怖くなった。しかも、気のせいか急にその白い「潮」が膨らみ、躍っているように見えてしまい、
「早う茶店に戻ろい。早く。早うせんと、潮が来る、潮が来る」
 と父にも兄にもせっついた。言っているうちにますます恐怖が増してきて、身も世もなかった。涙が出て来て、泣きに泣いた。それで、周りにいたみんなからゲラゲラ笑われてしまったのであった。そのようにして初めての海を体験したから、記念写真に写るわたしは、4年生たちの後ろの方で父に抱きかかえられ、みじめにベソかいている。
 これは、昭和28年(1953)5月27日のことであった。なぜそのようにはっきり分かるのかと言えば、記念写真に日付けが刷り込まれているからである。当時、球磨川の下流には荒瀬ダム・瀬戸石ダムが建設中であった。荒瀬ダムの完成は昭和30年、瀬戸石ダムは33年完成。荒瀬ダムの方は最近撤去されて、今はもうない。そして白島海岸であるが、昭和30年代に埋め立てと港湾工事が始まり、島の前面は八代内港・外港と化した。だから風景はまるで一変してしまっている。ただ、茶店の西側にあった清冽な「地獄尻」という名の湧き水は今もある。この湧水のことは、耕治人の小説「いずみ」「うずまき」「二人の兄」等で印象深く描かれている。そして、白島のすぐ近くの病院には後に姉が重篤な自律神経失調症を病み、縁があってそこへ入院させてもらった。57年間をその病院内で闘病生活した果てに、昨年10月他界した。わたしはわたしで、昭和54年に学校勤務の関係で八代市に赴任して以来、ほんのちょっとの間いるつもりだったのが色んな事情が重なって、結局住み着くこととなった。八代で生まれ育ったわたしの一人娘にとって、ここは完全にふるさとである。八代には御縁があるのだなあ、と思う他はない。
 ――――こんなふうな話を便りに書いて出そうなどと、出しゃばった気持ちは全くない。「こころ旅」には感動的な手紙が続々紹介されており、歯が立たない感じだ。それでも、自分にとっては忘れられない場所であり、思い出なのだなあ。今、しんみりした気分である。
 
 
 
写真 八代港(内港) から見る白島

▲八代港(内港)から見る白島。緑色の丘が白島。画面右手の方に行けば八代市街。左手へ1キロほど行けば、大型船舶が横付けできる外港。内港は定期航路の船や漁船・遊船など中型・小型の船舶が利用しており、海水浴や潮干狩りの名所であった頃の面影はまったくない

 
 
 

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