連載コラム: 『本のある生活』 2018.05.23

第327回 白島へ

前山 光則

 前回、生まれて初めて海を見た時のことを話題にしたが、実はそこへ行ってみた。
 4月18日、良い天気であった。午前9時半頃に自転車で家を出た。球磨川の分流である前川の左岸を少し遡った後、旧前川橋から右岸へと渡る。後は、その土手を下流へと進めばいい。前川の河口に展開するのが八代内港・外港であり、白島は内港の方のほとりに面している。わが家からおおよそ7キロほどの距離、気ままなサイクリング気分だ。途中で住吉神社に入り込んだり旧蛇籠港で休憩したりして、白島に着いたのが午前10時過ぎであった。昔は名前のとおり「島」だったのだが、干拓事業によって小丘と化した白島。幼稚園の頃に潮干狩りに連れてこられた時には白島の前面は海に面しており、渚に茶店があった。茶店で着替えや貝掘り道具の確認があった後、目の前のだだっ広い潟海へ出て潮干狩りに興じたのだったが、あの茶店のあった場所はどこだろうか。広場があるので、自転車を置いた。目の前に白島の丘、丘への登り口に赤い鳥居がある。鳥居の近くに立つ標識には、こう記されている。
 
「明治三十七年(1904)郡築干拓造成以前は八代海の孤島であったこの白島は、良質の石灰岩からなり、八代最初の平城である麦島城、名古屋城をモデルに築城された八代城の石材を切り出した島で、その跡が残っている。元禄年間にこの石材で作った手水鉢が江戸へ送られた記録がある。島には東端と西端に遊水池があり、西端を地獄尻と呼んだ。妙見町水無川の君が渕が底なし渕と伝えられ、その底流水がここに湧いて出ると言われていた。実は宮地に広がる伏流水が清水として湧き、泉となっていたものである。貴重な飲料水や灌漑用水となっていた。島の中腹には弁財天を祀る祠がある。石切場であったため、島は小さく変貌している」
 
 ははあ、そういうことだったのか。かつてこの島は石切場で、ここから産出された良質の石灰岩はわが家のすぐ近く小西行長が築いた麦島城にも使われ、八代市中心部の八代城を加藤正方が造る際にも切り出された。そういえば、八代城は石垣が白いので「白鷺城」と称されたそうだ。さらに、元禄年間には白島の石で造られた手水鉢が江戸表へ差し出されたこともある、というわけだ。白島が干拓事業により陸地化したのが、明治37年。その間、良質の石灰岩は何かにつけて切り出され、島は低く小さくなっていったのだ。白島がこのような歴史を背負っていたとは、正直、驚きであった。わたしが「潮の来る、早う戻ろう」と泣きじゃくったのが昭和28年5月27日だが、その後、昭和30年代には白島の前面の海も埋め立てが行われ、沖の方は逆に深く掘られて、昭和40年代にはここらに八代内港・外港が完成する。潮干狩りや海苔養殖や定置網漁の行われていた豊饒の海は、消えてしまった……。
 白島の丘のてっぺんまで登ってみようとしていたら、人の好さそうな婆ちゃんが現れた。
「このへんに、昔、茶店がなかったですかね」
 と話しかけてみた。
「茶店、ほう、茶店ねえ……、あなた、それはいったい、いつ頃の話ですか」
 ちょっと不意を突かれたふうである。
「昭和28年の5月に、人吉からここへ潮干狩りに連れてきてもらったとですよ。その時、浜辺の茶店で休憩したとですが」
 そうしたら婆ちゃんは、笑みを浮かべて、
「それなら、わたしたちがここに来る前の話たい。わたしたちゃ40年前に天草から来たとだもん。うちの人が船の仕事しよったから」
 ははあ、とため息が出る思いだ。40年前というなら、昭和53年頃。ここらはもう完全に埋め立てられ、八代内港・外港もすでに出来上がっていた。わたしはそれより25年も早い時期に潮干狩りに来たことになる。
「茶店のことは知らんけど、ここには回転焼き屋があった。風呂屋もあったよ」
 婆ちゃんは懐かしそうである。そうか、八代内港・外港が出来て色んな船が発着するものだから、ここらはいわゆる「港町」として繁盛を極めた一時期があったのだ。だが、それももう今となってはすでに過去の話である。モータリゼーションが進むにつれて海上交通は衰え、港もあまり利用されなくなった。外港の方には大型客船や貨物船が来るので、少なくともその時だけは賑やかであるが、内港周辺はさっぱりである。
「せっかく来たのならば、上まで登ってみてごらん。眺めが良かよ。向こうの広場に行けば、てっぺんが見えるけん。そこの先の広場から、あたしが下から手を振ってあげるよ」
 と婆ちゃんが言うので、そうすることにした。鳥居を潜って、山道にとりつく。ちょっと歩を進めるだけで左手に弁財天が現れる。恭しく柏手を打ってから右へと視線をやると、もうすぐ目の前が頂上だ。5分もかかったろうか、あっけない「登山」であった。頂上に立って下の方を見ると、確かに広場があって人がいる。でも、お婆ちゃんでなく男衆が2人、所在なさそうだ。だが、見ているうちに右手からお婆ちゃんが現れ、こちらを見上げて手を振ってくれた。うれしいなあ、婆ちゃんはちゃんと約束を守ってくれたのだ。
「いやあ、登りましたよ、すぐでした」
 と大声で報告したが、聞こえたか、どうか。婆ちゃんはニコニコ顔で見上げている。
 自転車を置いた場所へ下りて行ったら、男の人がいた。80歳には達していそうな人だ。声をかけ、茶店のことを訊ねてみたら、
「茶店ね。あれはその鳥居のもうちょっと右手の方だったかな。確かにあったなあ」
 はるか遠くの方を眺めるかのような表情だ。ここらは海水浴場として賑わっていたし、潮干狩りも盛んだったとか、ハマグリの産地だったとか、ここ白島の裾には2箇所、湧き水がある。東の裾の湧水はこのあたりで使われるだけでなく、不知火海を挟んだ対岸の天草島へも鉄管で送られている。西裾の湧水は「地獄尻」と呼ばれ、かつて池をなしていた。今も、わりと良く水が湧く、というようなことも丁寧に教えてくださった。この地獄尻についてはわたしも何度か見に行ったことがあるから、話を聞きながら親近感があった。
 ひとしきり語った後、
「ちょっと、今、ここの鍵を持って来るから」
 とその人は言った。鳥居の前に平屋建ての一軒家があり、そこは公民館なのだそうだ。
「すると、ここは町内会の集まりの場ですね」
「はい、わたしは町内会長です」
 いや、これは幸運であった。町内会長さんはしばらくしてから戻って来て、公民館の中へ入れてくれた。館内の奥には、壁に昔の白島あたりの写真が何枚も展示されているのだった。白島の遠景、大勢の人が海水浴場を愉しんでいる様子、茶店の写っている風景、等々である。ああ、そうそう、こんなふうなところだった、と幼い頃の記憶が鮮やかに蘇る。港町と化した現在のこのあたりからすれば、似ても似つかぬのどかな海浜風景。観ていてため息が出てしまった。幼稚園生の頃のわたしは、このような景観の中で「初めての海」のプレッシャーに怯えたのだなあ。
 埋め立てが始まった頃の写真もあって、撮影者はなんと『昭和の貌――あの頃を撮る』(弦書房)の麦島勝氏。さすが麦島氏、時代の移り変わりを捉えてくれていたわけだ。
 写真展示の横にはここ八代市港町の歴史が記されており、それによれば町内が正式に発足したのは昭和37年11月1日。ということは、その頃ようやく港は姿を整えていたことになる。現在の会長さんは第11代で、3年前の4月就任、とある。これを観せてくれた第11代町内会長さんに深々と頭を下げてから、家に帰ったのであった。
 ついでながら、後で白島について調べてみたら、白島の標高は18.7メートル、熊本県で一番低い山とのことだ。でも、実際には九州で最も低いに違いない。福岡県の西の方にある小岳が九州一低いとされているが、21.0メートル。長崎県の細ヶ岳が25メートル。こういうのより白島の方が低いからである。全国的には、宮城県仙台市の日和山というのが3メートル、次に大阪市の天保山4.5メートル、さらに同じ大阪市蘇鉄山が6.9メートルである。ベスト3にも入らぬことになる。やはり上には上があるものだ、いや、下には下がある、というべきか。こうした低い山ばかりを巡ってみるのもおもしろかろうな、と思ったことであった。
 
 
 
写真① 昔の干拓堤防

▲昔の干拓堤防。画面左手が旧堤防。この左手に港が展開する。画面の奥に白島が見えている

 
 
写真② 白島

▲白島。自転車を置いたのが、画面右手である。茶店も右手にあったそうだ。白島の中腹に赤くほの見えるのが弁財天

 
 
写真③ 白島頂上からの八代港(内港)の眺め

▲白島頂上からの八代港。良い眺めである。ただ、目の前に見えるのは内港。向こう側に天草島がある。八代外港は画面右手に行けば現れてくる

 
 
写真④ 埋め立て以前の白島

▲埋め立て以前の白島。公民館に展示されている写真の中の1枚である。ほんとにこうした風景だった。現在とは似ても似つかない

 
 
 

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