第329回 世評と自分の想いと

前山 光則

 最近、岩波文庫版の『与謝野晶子歌集』を開いてみた。与謝野晶子は、明治34年(1901)に満22歳で『乱れ髪』を刊行して以来、最晩年昭和17年(1942)刊の『白桜集』に至るまで全部で27冊の歌集を刊行しているそうだ。この文庫版には、まず昭和13年(1938)までの歌から作者自身が良しとして自選した2963首と、後で編集部が晩年の『白桜集』から抜いた100首、合わせて3063首が収録されている。与謝野晶子の歌人としての歩みを辿るには最も便利な本だ、と思ったのであった。
 ところが、便利ではなかった。田山花袋の小説『田舎教師』の中に主人公の林清三が雑誌「明星」を読みふける場面があって、
 
 
 椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る
 
 
 主人公はこの与謝野晶子の歌に感動する。巻末の注釈にこの作品は『みだれ髪』に収録されているとあるから、それで文庫本を開いてみたのだったが、出てこない。これでは不便である。あらためて目次を見てみたら、なんということか、『みだれ髪』は全393首で構成された歌集であるのに、その中から与謝野晶子はたった14首しか文庫に入れていない。正直なところ、これには驚かされた。
 たったの14首を見てみると、さすがに世評高い次のような歌は収められている。
 
 
 その子二十(はたち)櫛に流るる黒髪のおごりの春の美しきかな
 清水へ祇園をよぎる花月夜こよひ逢ふ人みな美しき
 やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君
 ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清滝夜の明けやすき
 何となく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな
 
 
 そして、他に「かたみぞと風なつかしむ小扇の要(かなめ)あやふくなりにけるかな」「昨日をば千とせの前の世と思ひ御手なほ肩にありとも思ふ」というのも入っている。だが、この二首などは、『田舎教師』の主人公・林清三が感動した「椿それも……」と比べて、はて、どうなのだろう。わたしの主観を言わせてもらえば、林清三の感動した歌の方を採ってやりたい気がしてならない。
 それで、である。文庫版巻末に付された与謝野晶子の「あとがき」に目を通してみて謎が解けた。作者によれば、自分の若い頃のことは「私は詩が解るようになって居ながら、また相当に日本語を多く知りながら表現する所は泣菫氏の言葉使いであり、藤村氏の模倣に過ぎなかった」のだそうだ。つまり『乱れ髪』の頃の作者はただ薄田泣菫や島崎藤村の強い影響下にあり、彼らに倣っていたに過ぎなかった、というわけである。だから若い頃の時代の作品について今でもとやかく言われるのは「迷惑至極」であり、教科書などで採られていることが多いのを見るにつけ「私は常に悲しんで居る」と嘆いている。文庫版に『乱れ髪』から辛うじて14首収めておいたことについては、「初期の歌に寛であることを私は恥じて居るが、これは歴史的にという書肆の希望があったからである」、だからもし版元の方から要請がなければすべて落としてしまいたかった、と言いたげである。これはもう、ほとんど『乱れ髪』全否定に近い。ちなみにこの「あとがき」は昭和13年5月に書かれており、与謝野晶子は満59歳だった。4年後の昭和17年5月には他界する。
 つまり、晩年の与謝野晶子は、自身の22歳の頃の『乱れ髪』について非常に手厳しい、冷たい、ということになる。
 与謝野寛・晶子夫妻は、昭和7年(1932)の8月に九州旅行の途次、わたしのふるさと熊本県人吉市にも一泊し、土地の文芸愛好家たちと交流しているが、その折りの晶子の歌もこの文庫版には収録されている。
 
 
 大ぞらの山の際より初まると同じ幅ある球磨の川かな
 川あをく相良の町の蔵しろし蓮(はちす)の池にうかべるごとく
 人吉や蜀の成都の人とある船のうへとも思はるるかな
 秋きよし球磨の大河のいもうとの人吉の湯のあふるる聞けば
 相良びとわれらの船に行ひぬ別離のきはの球磨の水掛(みづかけ)
 
 
 人吉の人間にとっては、わが郷土のかもし出す風情がこうして歌に詠み込まれているのは嬉しいことである。だが、だからとて与謝野晶子ならではの詠とは言えなかろう。しかし、それでもかまわないから、この人は若い頃の歌の方を消し去り、年をとってからの穏やかな作品を採りたかったのであったか。
 文庫版『与謝野晶子歌集』を前に置いて、なんだか妙な気分であった。
 
 
 

▲ガクアジサイ。漢字では「額紫陽花」と書くのだそうだ。今、咲きほこっていて、雨の降るときには特に瑞々しい