第332回 独り住まいとなって

前山 光則

 先月18日、妻・桂子が亡くなった。6月に71歳になったばかりであった。昨年秋に膵臓癌の手術を受けて以来、療養を続けてきたのだが、今年の春になって以前病んだことのある乳癌までが再発し、肝臓に転移してきて、どうしようもなかった。でも、最後までけなげに病いと闘ってくれたと、亡妻の芯の強さにあらためて感じ入っている。
 妻に先に逝かれてしまい、独り住まいとなった。娘が福岡市に居るので、必要があればやって来てなにかと手助けしてくれるものの、普段はずっと独りで起居するのである。考えてみれば、結婚したのが昭和48年(1973)4月であった。45年も一緒に暮らしてきたわけだ。能天気で、いい加減で、飲んだくれで、うだつの上がらぬわたしなどに愛想も尽かさず、よくぞずっと一緒にいてくれた。いや、それ以前から中学・高校と同級であった。同級生には、わたしなんぞよりずっと男前で、頭が良くて、気の利く者たちがいっぱいいた。わたしなどは容貌も冴えず、胴長短足、しかもボンクラであった。それなのに、わたしなんかと、よくもまあ長い年月つきあってくれたものである。
 わたしは今までいろいろな書き物をしてきたが、いつも最初に読んでくれるのは妻であった。感想を述べるし、意見もしてくれた。妻は読者であり、往々にして鋭い批評家でもあった。今からは、そんなこともしてもらえない。
 とはいえ、実はまだ、妻があの世に逝ってしまったことを本当に自分が理解しているのか、自信がない。朝起きたら、遺影に向かって「お早う!」と挨拶する。出かける時は「行ってきます」、帰宅したら「ただいま!」、飯を食べる時は「いただきます」、風呂に入る時は「ちょっと一風呂浴びるけん」、寝床に入ろうとする際は「お休みなさい」と、しょっちゅう声をかけている。返事がないが、気にならない。そこにまだ妻が黙って座ってくれているかのような、不思議な感覚がある。
 そのくせ、さみしい。飯を食べても、ちっともうまくない。少し食べただけで、止めてしまう。これではいけないので、無理にでも口に押し込めて、ついつい食い過ぎるので、胃の調子がおかしくなってしまう。いや、これはいかんと外へ出て、人のたくさんいる食堂等で食事するのだが、独りでぽつんとテーブルに坐るのは家に居るのよりもイヤだ。たった一軒、八代駅前に行きつけの喫茶店があり、そこならばマスターや店の家族はもちろんのこと、常連客とも顔なじみである。店に入るだけで心が和む。だから、以前よりも足繁く通い、コーヒーを啜る、たまにスパゲッティやカレーを注文して食事もする。
 昨年の秋頃から時折り野良猫の母娘がわが家に立ち寄るようになって、母親の方は朝早く必ず来るから「アサ」と名づけてやった。その子どもであるから、チビ猫の名は「コアサ」としてやった。三毛猫で、とてもかわゆい。両方とも犬猫病院で避妊手術までしてもらったが、母親の方はわが家には居着かず、たまに姿を見せるだけである。むしろコアサの方が春頃からすっかりわが家で暮らすようになって、とりわけ妻が、自宅療養中、よくかわいがった。この三毛猫はかなり心の癒しとなっていたのである。そのコアサが、7月18日の妻の死以来、姿をくらましてしまった。近所で見かける人がいて知らせてくださるものの、わが家へ帰って来ようとしない。猫も事態の大変化を感じ取って、うろうろしていたのであろう。母親のアサがたまに顔を見せるので「コアサはどこに居るとや?」と声をかけてみるが、キョトンとするだけだ。
 そのコアサが、妻の死後約2週間立ってからひょっこり帰ってきた。えらく痩せてしまっていた。ミャーミャー鳴かずに、静かに現れて、エサをやっても少ししか食べない。夜中、何度か知らぬ間に枕元に来ていて、その都度わたしは目が覚めてしまった。エサをねだることもあるが、ただそこにいるだけのこともある。コアサが帰ってきて寝不足気味であるものの、いないよりはマシだなと思う。もう家出なんかするなよ。
 家族葬というかたちをとって内輪で弔いをしたので、これまで色々お世話になった方たちにまだ妻の死は知られていないだろうと思う。それでも、親しくさせてもらっていた人たちが少なからぬ数で弔問に駆けつけてくださったわけだが、しかし本来ならお知らせすべき大切な方に連絡せぬままとなっているはずである。そのことをお詫びするとともに、今、あらためて妻が生前お世話になったことへ心から感謝申し上げる次第である。
 
 
 

▲頂上部に雪をいただく市房山。亡くなった妻は、昭和22年6月18日にこの山の麓、熊本県球磨郡水上村湯山で生まれた。後に、父親の仕事の関係で人吉市に移り住んだ(2013・1・4、撮影)