連載コラム: 『本のある生活』 2019.04.05

第346回 春の一日

前山 光則

 先日、福岡市にいる娘のところに遊びに行った。娘と一緒にレンタカーを利用し、近くの山間部や海辺をドライブしてまわった。久しぶりに遊びまくったわけであった。
 まず、行ってみたいところがあった。真言宗の古刹で、寺やその周辺を散策するだけでも気持ちが和む。初めてそこを訪れたのはもう30年も前、友人に連れられてのことであった。その時の心地好さが忘れられず、実は昨年、妻を伴って再訪した。今年も立ち寄ってみたくなったのである。
 折しもあちこちで桜が咲いていた。娘が車を運転してくれて、山間部に入る。娘にとっては、その寺に行ってみるのは初めてのことであった。福岡の中心部からほんの約40分ほどで寺のあるあたりに着く。町なかのガヤガヤしたところから来ると、ひっそりとして、ウソみたいな静けさだ。たったそれだけで、ああ、来て良かったな、と思う。
 拝観料を払い、寺の中を見学させてもらった。若いお坊さんが案内してくれて奥へと入る。廊下を通り、広い庭や池を横目に眺めながら階段を上る。4.8メートルもの高さの木造千手観音立像があるところへと案内され、そこには比較的若い感じの夫婦が先客で来ており、別のお坊さんから説明を受けていた。わたしたちが拝観し、座ると、おもむろにその寺の歴史や観音立像についての説明が始まった。なんでも、成務天皇48年(178)にインドから僧がやって来て開創したとの言い伝えがあるのだそうで、それならば日本への仏教伝来とされる時代よりもずっと早いことになってしまう。要するにたいへん古くからある寺院だ、とわきまえておくことにする。ひととおりの説明の後、お坊さんが経を朗唱した。お経のことなど聞いていてちっとも分からないのだが、確か般若心経もあった。朗々としており、心地良いほどであった。
 参拝した記念に、お守りを買った。
 車に乗り込んでエンジンをかけるころになってから、娘が、
「今まで聞いたお経よりも、なんか、音楽を聴いているような感じだった」
 笑みを浮かべてそう言った。不意を衝かれた感じであったが、
「確かに、な」
 うなずくしかなかった。
「今まで行ったことのあるお寺では、こんなじゃなかった」
 と娘は言う。「今まで行ったことのある寺」が何宗であったかはともかくとして、それに比べて真言宗のこの寺のお経は音楽的と評するのだから、これは誉め言葉ではなかろうか。
 昨年7月18日に亡くなった妻のノートのことが、思い出された。亡くなる4ヶ月前の3月17日にこの寺へ来た時、寺では護摩行が行われていた。妻はノートに「護摩だきがあっていて加えてもらう」と記しており、確かに妻やわたしだけでなく他にもたくさんの人たちが詰めかけていた。妻は積極的だったから中に入り込み、参観者たちの一員として「加えて」もらっていたのである。続けて、ノートに、
 
 声明のところで涙が落ちる。
 このごろ音楽が聴けない。
 声明に音楽を感じる。
 
 とメモしている。「このごろ音楽が聴けない」とあるのは、家にいて好きな音楽を聴こうと思えばいつでもそうすることができた。しかし、聴いてみても気が乗らなかったのであったろう。その頃すでにもうあまり体調が思わしくなくて、妻は精神的につらい状態だったのである。そんな中、福岡の山中の寺に来て護摩炊きの声明に聴き入り、涙を流し、「音楽を感じる」。確かにあれは声明で、音楽であるわけだ。妻は心が癒されていたことになる。そして、娘がまた母親と同じような感想を洩らしたので、感じ入ってしまった。わたしなどは、昨年も今度もただぼんやりと聴いていたに過ぎなかった。
 もう一度ここへ連れて来てやりたかったなあ、と思う。
 寺を出た後は、すぐ下に窯元があるので、見学した。かつて西鉄ライオンズの全盛時代にピッチャーとして活躍した人が、現役引退後、開いた窯だ。あいにくご本人は不在、家の人が応対してくれた。山を下りた後は、思い切って佐賀県の呼子港まで足を伸ばし、活きの良いイカを食った。天気に恵まれ、あちこちで桜が咲いていて、おいしいものを味わうことができた。妻がもういないということを除けば、充分に愉しい一日だった。
 
 
 

▲山の中の古刹。山道を辿って行くと、忽然として寺が現れる。境内は手入れが行き届いており、良い雰囲気である

 
 
 

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