【番外編】東日本大震災に言葉を失った

 3・11以来、畑のことはとても書けなくなった。テレビに釘付けになり、言葉を失った。
 
 実はわたしもかつて新聞記者だった。悲惨な災害を何度も取材した経験もある。
 しかも今回、地震、津波、さらには原発による深刻な放射線にさらされ、役場ごと住民がごっそり避難している福島県の太平洋岸沿いの町や村。そこはわたしの初任地だった。ああ、あの町や村が、と思うといてもたってもおれぬ焦燥にかられる。
 のどかで温暖なあの町や村のかつての姿がまなうらによみがえる。最近では「みんなが住みたいと思う」地域として人気の高かった町や村が、いま三重苦に責められている。

 あの日以来の日々をふりかえってみる。
 地震・津波の発生直後、まず気にかかったのは、親戚・知人・友人たちの安否だった。
 福島の義弟一家はなんとか翌日連絡が取れた。家はかなり傷んだが、無事に避難していることがわかった。仙台の知人も4日目にやはり避難して無事が確認できて、胸をなでおろした。
 半年前に訪ねて痛飲したばかりの仙台、塩竃の後輩記者も心配だったが、こちらは忙しかろうと、連絡をとることもはばかられたが、やがてその身の安否だけは確認できた。
 福島の義姪は遠く名古屋に避難していた。
 当地、出雲の消防士の甥は救援にかけつけたが、帰ってきても被災地のことを話さぬという。あまりの惨状のなかでの捜索活動にショックを受けてのことではないか、と家族は言う。

 やがて福島原発の事故が悪化の一途をたどり始める。大気の、作物の、土壌の汚染が報じられ、「乳児には水道水を使うな」と警告が発せられた。
 福島の弟の孫は乳児で、「水が、水がない! 孫に飲ませるミルクの水がない!」と義妹からパニック気味のSOS。
 すぐに走った。コンビニ、スーパー、ドラッグストア、ホームセンター、5店をまわったがミネラル水の棚はどこも空っぽ。入荷予定はないという。ここは被災地から2000キロも離れているのになぜ?
 炭酸飲料メーカーの倉庫でやっとミネラルウォター3ケースを分けてもらって送る。「さあ、1週間かかるか、10日かかるか」と郵便局の窓口で言われたが、3日目に届いた。
 やはり福島の別の義妹は「もう年だから覚悟を決めた」と言って、余震で眠れぬので酒を飲んで眠ってしまうという。

 今朝の毎日新聞を開くと、塩竃の後輩記者が被災ルポを書いていた。その記事によれば、取材の帰路の船上で地震に遭遇したという。強行着岸した船から避難して一時間後に津波の第一波が襲ってきた。
「目の前で車が、観光船が、家屋が押し流されていく」なか、避難所になっていた市役所に「走って、走って」やっと難を避けた。
 以来、避難所に寝泊りして取材を続けたが、震災11日目、ストレスから出血性胃潰瘍になって入院しながら取材を続けているという。

 昨日から神戸に行っていた。そこで会った介護施設で働く甥っ子は、阪神大震災を経験している。「何とか休暇をとって東北に支援に行きたい」という。介護経験をいかして「何かできることをやりたい」という。「単独で勝手な動きをしてかえって被災地に迷惑をかけるなよ。食料は自前で準備して行けよ」ということくらいしか言えないのが情けない。

 被災地はこれからがますます大変になる。原発事故もさらに深刻な様相だ。
 災害、天災では、怒りや悲しみをぶつける相手の姿が目の前にない。いきおい行政や目の前の非被災者にぶつけがちになる。「人災だ!」と言い立てたくもなる。
 あるいは「まだひどい人たちがいる」「助かっただけでも……」と自分のなかに抱え込んでしまいがちになる。
 災害はいつでもどこかで「人災」を引き連れてやってくる。
 だが、いまは人の失敗やささいなミスをとがめだてするときではなかろう。一部メディアは、自らは安全地帯にいながら、やっきになって他の責任追及を始めている。
 責任追及や検証はしかるべき時期になってやればよい。いまはまだそのときではない。いたずらにマイナス情報をあおるようなセンセーショナリズムは厳に慎むべきではないか。
 後だしジャンケンのような高みからの言動は控え、あくまで被災者に寄りそう、情報提供に徹するべきではなかろうか。

(出雲在・三原 浩良老生)

▲宮城県多賀城市(3月13日、撮影渡辺)。津波で砂押川の堤防が決壊。後方の煙は仙台港の石油製油所火災

▲宮城県七ヶ浜町菖蒲田浜(3月14日、撮影渡辺)。東北有数の海水浴場と約500戸の集落が壊滅