三原 浩良
◆連隊長のダビング・テープ
「僕はね、大正生まれは本当にかわいそうだと思うんだよ。明治と昭和にはさまれて、戦争の犠牲者はもっとも多いはずです。生き残ったものも戦後はがむしゃらに働いて」
勤め先の新聞社の支局を訪ねてみえた高齢の紳士は、「後藤四郎」と名乗り、いきなりこう切りだされた。
とにかくこれを聞いてください、と連隊長はバッグから小型のラジカセを引っぱりだし、テープの再生ボタンを押した。
♪大正生れの俺たちは
明治の親父に育てられ
忠君愛国そのままに
お国のために働いて
みんのために死んでゆきゃ
日本男児の本懐と
覚悟を決めていた なあお前
寮歌と軍歌をとりまぜたような、ペーソスにあふれるメロディにのってこんな歌が流れだした。
のちに知ったのだが、後藤さんには『軍命違反「軍旗ハ焼カズ」――陸軍へんこつ隊長』という著書があり、東条英機ににらまれてソ満国境におくりこまれたという。以前、松前重義・逓信院総裁(のち社会党衆議院議員、東海大総長)が東条の怒りをかって南方戦線にやられたことを、その著作『二等兵物語』で読んでいたので、さもあるかと思ったのだが、念のために松本清張の『昭和史発掘』をめくってみたら、確かに東条が忌避した軍人のリストのなかに「後藤四郎」とあった。
後藤さんは、一見おだやかそうな人柄にみえたが、自著の副題に「へんこつ」とつけたように、なかなかの気骨が秘められ、終戦時には、「軍旗焼くべし」という軍命にさからって連隊旗を某神社にひそかに隠した逸話の持主でもあった。
♪大正生れの青春は
すべて戦争(いくさ)のただ中で
戦い毎の尖兵は
みな大正の俺達だ
終戦迎えたその時は
西に東に駆けまわり
苦しかったぞ なあお前
「僕はね」「僕がね」と、陸軍大佐殿は「僕」を連発しながら、「部下の大正生まれをたくさん死なせたからね。この歌をぜひ大正世代の人たちに聞かせてあげたくて」
こうしてテープをダビングして配っているのだという。
◆大正生まれ、がむしゃらの三十年
♪大正生れの俺達にゃ
再建日本の大仕事
政治、経済、教育と
ただがむしゃらに三十年
泣きも笑いも出つくして
やっと振り向きゃ乱れ足
まだまだやらなきゃ なあお前
たまたまこの日、大正十五年生まれの先輩から定年の挨拶状が届いていた。予科練生き残りの彼は、毎年欠かさず甲飛会(慰霊の同期会)に遠方まででかけていたことが想起された。
♪大正生れの俺達は
五十、六十のよい男
子供も今ではパパになり
可愛い孫も育ってる
それでもまだまだ若造だ
やらねばならぬことがある
休んじゃならぬぞ なあお前
しっかりやろうぜ なあお前
わたしは、後藤さんの来訪を「大正生れ」の歌詞とともに、新聞の地方版のコラムで紹介した。
驚くほどの反響がかえってきた。
「私は原爆犠牲者ですが、主人は毎年八月九日がやってくると、オレ達戦争犠牲者はどうなるんだと口ぐせのように言います。この歌の歌詞は主人の口ぐせの内容と同じなので、つい涙がこぼれました。主人は大正十三年生まれですが、いま急性緑内障で入院中で、テレビを見ることも、字を書くことも禁じられています。だからこの歌のテープを聞かせてやりたいのですが、何とか入手できないでしょうか」
「大正生まれの小生、ぜひあの曲を知りたいのですが」
「共鳴するところ大、あのテープは市販されてないのか」
はがき、手紙、電話でたくさんの問い合わせが舞いこんだ。
さて、どうしたものか。後藤さんから預かったテープは手元に二本しかない。
ところが、さらに驚くような電話があった。
「いやあ、あの歌をつくった小林はわたしの親友です。テープはここにいくらでもありますよ」
電話の主は長崎県庁の総務部長の小田浩爾さんだった。さっそくいただきに訪ねる。
この歌をつくった小林朗さんと、小田さんはともに大正十四年生まれ、神戸高等商業(神戸商大から現神戸大経済学部)の同級生だった。
昭和十八年(1943)、それまで二十歳だった徴兵年齢が十九歳に繰り下げられ、学生の徴兵猶予も解かれた。雨の神宮外苑から数万の学徒が出陣していったのもこの年秋である。
ふたりとも学業なかばで新兵となり、小林さんは陸軍へ、小田さんは海軍へ。ともにわずかの時差で生還をはたすことができた。
本土決戦にそなえ、小田さんは、自爆用ロケット弾で「毎日死ぬ稽古」をしているうちに敗戦をむかえる。「あとの人生はもうけもの」と思ったという〝海の特攻〟の生き残りである。
小林さんの「大正生れ」は、のちキャニオン、テイチクなどでレコードになったが、まもなく廃盤となり、こうしてダビングされたテープがひろがっているらしい。
小林さんは、新聞のインタビューにこう答えている。
「考えてみてください。終戦のとき大正生まれは、数えの二十から三十五歳です。戦中、戦後の斬りこみ世代だったんです。こんどの戦争では、二百数十万人の日本兵が戦死したと言われますが、九〇%までが大正生まれじゃありませんか」
「それにしても、この大正生まれの人々の労苦に比例した報いはなんであったろうか」とも。
わたしが後藤さんの訪問を受けたのは昭和五十六年(1981)の夏。「東洋の奇跡」と呼ばれた高度成長が安定期にはいり、消費ブームが続き、やがてバブルの崩壊がやってくるとも知らず、街には浮かれ気分があふれていた。
この日から小田さんと、昭和十二年生まれのわたしは、毎夜のようにテープをあちこちの店においてもらい、「大正生れ」の普及につとめることになる。カラオケはまだテープが主流の時代だった。
だが、「大正生まれ」には、まだ後日談がある。