三原 浩良
◆「大正生まれ」の歌、その後
「後日談」があると前回書いた。後日も後日、ごく最近、webで「大正生まれ」を検索して驚いた。
この歌を小林朗さんが書いたのは、歌詞のなかに「ただがむしゃらに三十年」とあるところからみて、おそらく昭和五十年(1975)前後のことと思われる。
共感する大正生まれのディレクターがいたのか、あるいは商魂が着目したのか、昭和五十一年、五十九年と相次いでレコードが市販されたらしいが、ほどなく廃盤となり、ひそやかに広く歌いつがれていったらしい。
加藤哲郎・一橋大教授のサイトをのぞくと、さまざまなバージョンの替え歌「大正生まれ」が集められ、その反響もたくさん寄せられている。
「勝手に使っていいよ」という加藤さんの言葉に従い、以下はほとんどこのサイトによっている。
その戦友会バージョンの替え歌の1番は―――。
♪大正生まれの俺達は
明治と昭和にはさまれて
いくさに征って損をして
敗けて帰れば職もなく
軍国主義と指さされ
日本男児の男泣き
腹が立ったぜ なあお前
「戦友からもらったテープを聞いた」という大谷正彦さんは、自著『大正は遠くなりにけり』のなかで、次のように述べている。
「曲が終わったとき、私は自分がいつのまにか泣いていたことに気が付いた。涙が頬を伝って静かに流れていたのだった。何という歌だ。何で俺の思っていることを全部歌っているのだ。そうだよ。その通りだよ」
大谷さんが手にしたテープは、この戦友会バージョンなのか、あるいは小林さんの元の歌詞だったのかはわからない。さっそくダビングして戦友会の仲間たちに配り、みんなで歌うようになったと記している。
その反響がごく最近まで延々と続いていたことに驚いた。それほどこの歌は、大正〝生き残り世代〟の人たちの心に深く重く響いたのだろう。
反響のなかには、「大正生れよ、泥を吐いて死ね」という、自省をこめた檄文もある。
「先の大戦での自分たちの踏ん張り、占領期間中の忸怩たる思いとあわせ現在の日本の状況を嘆く文章が多くなった。(略)大正生まれの多くは、まぎれもなくこの期間(戦後30年間)、日本の中枢におり、日本の舵取りを行っていた。中曽根や村山を輩出した責任は、まさに大正生まれが負うべきである」(筆者不詳)
◆昭和世代へのメッセージ
この歌の1、2番は「大正生まれ」の戦時を歌い、3、4番はその戦後を歌っている。いずれも〝大正生き残り〟世代の歌である。戦死した戦友は歌われていない。さすがに気になったのか、小林さんはほぼ十年後に五番にあたる、戦死した戦友への鎮魂の歌詞を追加している。
♪別れし戦友(とも)の
魂魄(たましい)は
空ならば なお天翔けり
海ならば なお水漬き揺れ
大地(つち)ならば なお草むさん
いでやわが友 この胸に
しかと眠れや なあお前
このサイトによれば、その後も女性版、各年代版などさまざまなバージョンの替え歌が作られ、歌われ、別のサイトにも広がっている。
加藤さんが「誰か女性編」を知りませんか、とネット上で呼びかけると、さっそく届いた女性版は―――。
♪大正生れの私たち
明治の母に育てられ
勤労奉仕は当たり前
国防婦人の襷掛け
皆の為にと 頑張った
これぞ大和撫子と
覚悟を決めていた ねぇあなた
さらに昭和6年生まれの替え歌は――――。
♪銃後の守りの俺たちは
明治の親父に育てられ
忠君愛国そのままに
お国のために働いて
みんなのために死んでいきゃ
日本男子の本懐と
覚悟は決めていた なあお前
昭和末期生まれバージョンなんてのまである。
♪昭和末期の俺たちは
大学改革ただなかで
大学4年をのうのうと
ろくに勉強しないまま
バイト・バイトに明け暮れて
平成不況の打撃受け
挙げ句の果てのフリーター
むなしかったな なあお前
替え歌の増殖ぶりにも驚いたが、大正生まれの人たちの胸奥でくすぶりつづける亡き戦友たちへの複雑な思い、がむしゃらに働いてなしとげた戦後社会の繁栄にどこかでなじめぬ違和感、その思いが同世代にしか伝わらぬもどかしさ……。
「昭和育ち」のわたしには、そう感じられる。
元歌の作詞・作曲者の小林朗さんは2009年に亡くなった。
2004年に「このところ、メールや電話での『大正生れ』の歌についての問い合わせが異様に多い」と書いた加藤さんに、連絡をとると「いやあ、久しぶりの『大正生れ』についての連絡だなあ」との返信メールが届いた。
無理もない。大正生まれ世代はもっとも若くてもいまや米寿である。
「大正生まれの歌」探索行で、小林さんから、われら昭和世代への宿題メッセージが届けられたような気がしてならない。