第三回 「遅れてきた青年」たち

三原 浩良

◆戦争否定の言葉のかげに
 大正世代の人たちが、小林朗さんの「大正生れ」の歌に共鳴し、歌によせる思いのあれこれを紹介してきた。
 この歌には直接関係ないが、小林さんと同年、やはり大正14年生まれの歴史学者、色川大吉氏の「あの戦争」への屈折した思いの一端を、その著書(『ある昭和史』)から引いておきたい。
「日本人が太平洋戦争を語るとき、しばしば戦争否定の言葉のかげに、今なお秘められた感情として、民族的なものへの献身や勇敢だった戦死者たちへの熱い共感を湛えていることを見逃すことはできない。私はこの心情を内側から理解し、汲みえなかったこれまでの進歩的な史学の叙述は落第であったと思う」
 この指摘はたいへん重要で、同世代の人々や戦中派の人たちの胸奥でくすぶりつづけ、やがて三島由紀夫の自決にみられるような戦後民主主義への批判・拒絶となってあらわれ、今日まで政治、教育、社会などさまざまな分野に尾を引いている。
 だが、この指摘についてはいずれ検討するとして、それとも深くかかわる「戦争と戦後」についての世代間の感受の相違について記しておきたい。
 色川氏は、先の指摘につづけて次のように書いている。
「『8.15』という言葉で象徴される日本の敗戦を、私たち本土の陸海軍部隊にいた学徒出身者の若者として以上のように(「太平洋戦争こそ日本人が経験した史上最大の国民体験であった」)受けとめてきた。しかし、この受けとめ方は特殊なものであり、敗戦当時十五、六歳前後であった人びととはかなりな違いがあったと思う。十歳前後の国民学校生徒たちともちがっていたであろう。ただ、当時においては一般的に年少であればあるほど皇国教育が徹底していたし、戦争理念にたいする純粋な気持を持ちつづけていたと思われる」
         
◆「少国民」にとっての開戦と敗戦 
 色川氏のいう「敗戦当時十五、六歳前後であった人びと」のひとり、山中恒氏(昭和6年生)は、その「少国民」シリーズで戦争の時代への告発を続けている。
「少国民」とは、軍国教育を受けてきた銃後の子供たちの呼称だが、実はこの呼称がヒットラー・ユーゲントに由来するとは最近まで知らなかった。
 以下はHP「ボクラ少国民」の記述によっている。
「12月8日、いつもより早く起き、玄関に新聞をとりに行ったとき、いつもより激しいラジオの音がした。母さん臨時ニュースだよといった。『帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英陸海軍と戦闘状態に入れり』と報じた。とうとうやったぞ。さあこれから、大人も子どもも一体で総力戦だ。ラジオは〝敵は幾万ありとても……〟という軍歌で勇み立っている。敵の軍艦を轟沈、轟沈のニュースに、思わずみな拍手、喝采した」
 昭和16年(1941)当時、小学校四年生の山中少年は、作文にこう書いたという。四年生の作文にしては難しい漢字が多いが、これはインタビューに答えての述懐のようだから、要旨こんなところだったのであろう。そして四年後―――。
「全く突然に8月15日の敗戦がやってきた。僕らは最後の一人まで戦うつもりであった。だからこそ、国民義勇兵に志願したのである。敵の弾丸を一発でも多く消耗させるなら、たとえ正規軍の弾除けに使われようと、それが天皇陛下の命令とあれば、喜んでそうしようと思った」
「陛下のご宸襟を安んじるため、がんばってるのに、それができないんじゃ不忠の極みだろう。だったら自決すべきだろうと僕は考えたね。純粋といえば純粋、ばかばかしいと思うかもしれないけど、これは伝えにくいね」
 このサイトの作成者も次のように追記している。
「私は山中さんと同じ昭和6年生まれである。戦前から戦中にかけての体験には大差ない。盛岡の中学では足にゲートルをまき、木銃を担いで登校した。焼夷弾も落ちたし、グラマンの機銃掃射も見た。8月15日は学校を守るためと称して柔道場に寝泊りしながら、正座して終戦放送を聞いた」

 余談になるが、山中氏よりひとつ年上の妹尾河童氏の自伝的作品『少年H』(1997年)は毎日出版文化賞特別賞受賞のベストセラーだが、一読わたしは「いくら何でもそりゃ違うだろう」と強い違和と不快感を覚えた。
 作中の「少年H」は反戦少年として登場してくる。しかし、山中は作品には多くの事実誤認があり、戦後の価値観や視点で「初めから結論ありきで描かれている」と『間違いだらけの少年H』のペンをとって激しく批判した。正直、わたしは溜飲のさがる思いだった。
 妹尾氏に記憶改竄の意図があったとは思わないが、文庫化されるさいには何個所もの訂正や削除がされたという。
 かほど記憶というのはあやうく、頼りない。こころせねばと思う。

◆「遅れてきた青年」たち
 さて色川氏のいう敗戦時「十歳前後の国民学校生徒たち」、わたしもこの世代にふくまれるのだが、かれらはどう受けとめたのだろうか。
 大江健三郎氏(昭和10年生)の初期作品に『遅れてきた青年』第一部 一九四五年夏、地方(1962年)がある。
作中の主人公の少年(敗戦時小6の設定)は、村に松根油工場をつくるためにやってきた予科練のひとりにこう告げられる。
「戦争は終わるぞ、きみは幼なすぎて、戦争にまにあわないよ、ぼうや!」
少年は徹底抗戦を訴えるビラに呼応し、村に不時着した米黒人兵から奪った自動小銃で武装してこの戦闘に参加しようとする。
「戦死した数百万の若い日本の兵隊とおなじように、ぼくも戦って死ぬのだ、決して遅すぎはしなかったのだ!」
 だが、遅かったのだ。少年は拘束されて教護院送りとなる。
 むろんこれはフィクションだから、この少年即作者ではないが、分身には違いあるまい。体験に裏打ちされたこの作品から、作者には「あの戦争」に遅れてきてしまったという深い悔悟があったことがうかがえる。
「ぼくが銃後少国民作文で文部大臣賞をもらったとき」とは少年の独白。「あなたはこの村の六年級でいちばん成績の良い、立派な少国民だったのに」と少年は教師に嘆かれる。
 大江氏はあきらかに自身を「少国民」と自覚していたと思われる。
 つい先日、大江氏と同年の友人が亡くなった。ひとりの友人は追悼文に次のように記している。
「彼の死去の報には、同世代の一人としてショックを受けた。1935年生まれといえば、小学校四年のとき敗戦。戦時中は〝少国民〟と言われた軍国少年から、戦後は一転、民主主義の申し子へ。その「幼き日の転向体験」を胸に抱いて育ってきた世代である」(久野啓介「魂うつれ」より)
 四国松山郊外の山中で敗戦を迎えたはずの大江氏、熊本郊外の田舎で8.15を迎えた久野氏。だが、わずか一歳年下で同じような田舎育ちのわたしには、軍国少年や「少国民」といった自覚はまったくなく、したがって「幼き日の転向体験」もない。
 大江氏と同じ昭和十年生まれの鴨下信一氏は次のように記す。
「それにしても、人によってさまざまの戦争があり、戦後がある。そしてそれは、前にも書いたが、ひどく<不公平>なものだ。
 死んだ、死なないだけでも、まず不公平だ。戦争とそれに続く戦後のことを思い出すたびに、最初に浮かぶのは<不公平>という言葉だ。戦死した者、生き延びた者。家を焼かれた人、家が焼け残った人。闇で儲けた人、飢えに苦しんだ人。戦犯となった人、危うく逃れた人、そして後に復活して首相にも総裁にもなった人、そのまま消え去った人。早く復員出来た人、抑留され続けた人……。
 生き残った人間のこの罪悪感が靖国問題でもあり、戦後の歴史認識の問題でもあるような気がしてならない」(『誰も「戦後」を覚えていない』)。