第四回 さまざまな8.15

三原 浩良

◆蝉の声にかき消された「終戦」
「遅れてきた青年」の大江健三郎より二歳年下、昭和十二年生まれのわたしたちは国民学校二年生で終戦をむかえた。「遅れてきた少国民」たちにとっての昭和二十年八月十五日はどんな日だったのだろう。

 遊びつかれ、のどがカラカラに渇いていた。井戸端に駆けこみ、汲みあげた井戸水を釣瓶からがぶ飲みした。まだポンプではなかった。釣瓶でくみあげる井戸だった。
 かたわらで洗濯の手を休めた、母がぼそぼそとつぶやいた。
「戦争が終わったらしいよ」
「ふ~ん」
 午後の暑いさかり、母のひとことの意味も理解できぬまま、わたしは蝉の大合唱のなか、ふたたび駆けだしていった。
 蓄音機やレコードはたくさんあったのに、なぜかわが家にはラジオがなかった。だから例の玉音放送も聞いていない。
「戦争」は遠い大人の世界の出来事だった。いや、村の大人たちも、その日特段変わった様子はなかった。普段どおりの真夏の一日だった。
 それにしても昭和を画する一日というのに、そんなおぼろげな記憶しかない。幼なすぎたのか、ぼんやりした子供だったからなのか。
 いまや七十五歳になった同年の友人数人にも聞いてみた。
「いや、俺もほとんど記憶がないなあ」
「ラジオは聞かされたけど、なんだかよく聞こえなかった。大人たちがざわざわしていたのでなにか大変なことが起きてるらしいとはわかったけどなあ」
「いや、学校には呼び出されなかったよ。だから知らなかった」
 この日正午には重大な放送があるので、家庭や学校で正座、あるいは起立して聞くようにとお達しがあったというのだが、誰もそんな記憶はないという。
 ふ~ん、みんな市街地を離れた田舎だったからなのか。
 この夜から、家のなかが明るくなった。灯火管制がとかれ、あけはなして電灯をつけてもよくなったからだ。そのことは覚えている。

 淡路島出身の同い年の作詞家・阿久悠氏の場合はどうだったのだろう。
「八月十五日のことを、よく覚えているようで、よくよく考えてみると実に曖昧で不確かで、大抵のことは後からの知識や空想によって埋め合わせたような気がする」
「夏の陽の照りつける国民学校の校庭で」玉音放送を聞いたという阿久悠少年は「恍惚としていたのか、朦朧としていたのか、ほとんど記憶にない。記憶にないどころか、夢幻の音楽に酔わされて漂っていた気がする。その間に国が敗れていたというのに……」と書いている(『ラヂオ』)。
 しかし、「とにかく泣いた。悲しいから泣いたのか、その辺がどうもわからない。あまり悲しくもなかった気もするのである。なにしろ八歳である。敗戦の無念も、祖国の未来を憂うるということもなかったといっていい」
 阿久少年はそんなに早熟だったか。それとも後日の刷りこみが記憶のひだににまぎれこんだのか。

◆教科書を塗りつぶした
「学校の始まりは、教科書を墨で真っ黒にぬりつぶすことからだった。夢も希望も正義も全てが墨に埋もれてしまった」
 阿久悠氏は、別な作品にこう書いている(『瀬戸内少年野球団』)。
 教科書を塗りつぶした記憶は、わたしにもおぼろげながらある。しかし、「夢も希望も正義も全てが墨に埋もれてしま」うほどの衝撃は受けなかった。
 作家の佐木隆三氏とはじめてあったとき、お互い同年とわかると、「いやあ、やはり教科書を真っ黒に塗った同級生ですなあ」と、握手をもとめられた。
 佐木氏は疎開先の広島の山中から、ピカドン(原爆)のきのこ雲を遠望したという経験の持主である。そのせいだろうか、墨塗り教科書の記憶はわたしよりあざやかに刻まれているようだった。
 同窓同年の友人、田尻賢爾君も最近、真珠湾を訪ねた紀行のなかで次のように書いている。
「学校にあがったのは戦時中。世界地図に赤く色付けされた太平洋の島々、台湾、樺太、満州など、日本の広さを示すものだと教わった。国語読本は「ススメ ススメ ヘイタイススメ」。国民学校一年時の記憶だ。
 教科書として配られたのは新聞を折りたたんだようなもの。先生の言われる行を墨で塗りつぶしたのは戦後のこと。二年か三年か、それとも四年生か。シベリア抑留から幸いにも生還した父がこれを見て「学校の本か、これが」といった。内容は記憶になく、探しようもない」(「島根弘友の会会報」89号)
 八月十五日の記憶同様、戦後の教科書墨塗りの記憶も、それぞれ微妙に違っている。無理もない。もうあれから六十八年、記憶はときとともに風にさらされ、ときにゆがみ、後年の追体験といりまじってかたちをかえていく。