第五回 同世代の「敗戦」の記憶

三原 浩良

 昭和二十年の「敗戦」とそれにつづく「戦後」は、われらの世代にとって何だったのか。いますこしつづける。
 たまたま同じテーマで、昭和五十七年(1982)に同世代の三人で語り合った座談会がある。季刊誌「暗河」(32号)の企画だった。
 鼎談は久野啓介氏(1936年生)、半田隆氏(1937年生)とわたし(同)の三人ですすめられた。いずれも戦時中の「少国民」である。
 以下に発言要旨の一部を再録する。ざっと三十年前、三人とも四十代なかば。当然といえば当然だが、当時自分が感じていたことは、いまでもほとんど変わっていない。記憶はすでに定着していた。

◆「絶対に軍人になるんだ」
〈半田〉ぼくは外地、いまの中国東北地区の鞍山にいたので特別かもしれないが、軍国主義一色だった。軍人勅諭を毎朝暗誦させられた。りっぱな護国神社ができていて、毎朝学校に行くとき上級生がつれて行くのですが、その前で必ず歩調をとらされるわけです。学校に配属将校がいて、いろいろやらされましたが、態度が悪いからでしょう、殴り倒されて体が二、三メートル吹っ飛んだことを鮮明に覚えています。そんなところで育ったから、自分は絶対軍人になるんだと思っていましたね。
〈三原〉ぼくは山陰の都市近郊の農村地帯で幼年期を過ごしましたから、そうひどくはなかった。いわゆる軍国教育というのも鮮明には記憶にないし、どうもぼんやりした記憶しかないですね。
〈久野〉ぼくなんかは、お二人の中間みたいな感じですね。軍国主義教育をびしびしたたき込まれたという思いはないけれども、そういう雰囲気というのはずっとありましたね。
 わたしは当時は宇土(現宇城市)ですが、開戦のときの自分を覚えてますよ。柱かなにかにつかまってガタガタとふるえていたのを妙におぼえています。まわりが興奮していたのでしょうね。学校は軍隊に接収されて戦争中からお寺などで分散教育を受けたんです。郊外に軍需工場があったせいで何度も空襲を受け、八月十日の大空襲で町並みはほとんど燃えてしまった。だからこの八月十日を境にして戦前の世界とその後の世界はまったくちがうんです。
〈三原〉なぜかアメリカの戦闘機の機銃掃射もあまり恐怖感はなかったですね。上級生に引率されての登下校も、むしろ日常の遊びの延長みたいなところもあってね。
〈半田〉鞍山の小学校は鉄筋コンクリートのスチーム暖房のついた立派な建物だったのですが、敗戦まもなく明け渡さざるをえなくなるわけです。授業は適当な場所が借りられたきに行われるという変則的なものになっていったのです。そのとき、女の先生が「今までの戦争は間違いだったんだ。だから軍人になるなどと考えてはいけない。新しい考え方で国をつくっていくために、これから勉強するんだ」と言ったことを記憶しています。家の壁に飾ってあった天皇の写真、ご真影ですね、それを庭で焼いたことが鮮明に思い出されます。
〈三原〉教科書を塗りつぶしたり、奉安殿が壊されたりという記憶はあるけど、教師もいま半田さんが言ったようなことをおそらく言ったにちがいないんですが、覚えていないですね。八月十五日がくっきりした境界という記憶はありません。連続している感じですね。

◆戦前全否定の「戦後」
〈久野〉戦後はとにかく戦前否定でしょう。戦争中の日本は悪い国でしたと教えこまれて、それを信じて育ったわけですから。
〈半田〉あの戦争が終わったことで、価値観が裏返しになった、と感じられた。今までうけてきたことの全否定ですよね。それまでは一応戦勝国だったものが、敗戦国になった。逆転したわけ。先生に今まで日本のやり方は間違いだったと言われたとき、子供心に愕然としたような気がする。 
〈久野〉ぼくはそれはないですね。教科書の墨塗りは覚えているけど、何年かうえの人たちのようにショックを受けて、不信感にさいなまれたような記憶はないですね。ああ、そうかと、すっと塗りつぶしてしまった。戦後はずーっと先生やら何やから言われたとおりやってきたわけです。墨塗りで悩んだことは?
〈三原〉いや、ないですよ。
〈半田〉悩んでるじゃないんですよ。転換があるでしょう、裏返しになったという思いが。だから戦後の民主主義、あれを受け入れてしまった。これこそ僕らの生きる目安だと思ってしまったわけです。
〈久野〉戦前のことは否定したというより、タブーになったという感じですね。あとは見事に民主主義の子です。
〈半田〉教師ががらりと変わってしまったでしょう。年とってる先生をぜんぜん信用したくなかった。 
〈三原〉そんなことはなかったなあ。
〈久野〉近くのお寺の坊さんが戦時中はものすごい軍国主義者だったんですよ。町の近くにアメリカの飛行機が落ちて米兵が捕虜になって派出所につれてこられたんですが、それをぶん殴ったりして。その人が戦後クルリとひっくりかえったんです。意外なことに英語が達者で、進駐軍といっしょにチャラチャラやってるわけです。周囲の人たちはみな苦々しく思っている。あいつは何だ、と感じたのは覚えてますね。

◆「特攻に志願したはずだ」
〈三原〉いまの熊本市長の星子敏雄さん。あの人は満州の警務長官だったから、十六年間シベリアに抑留されて帰ってきた人ですね。彼の助役時代にたまたま特攻隊の話になったんです。そしたら星子さんに「絶対お前さんは志願してるよ」と断定的にいわれまして、ちょっとうろたえました。
〈半田〉そうかもしれないというところあるでしょう。
〈三原〉そのときは「そうかなあ」と思ったけど、だんだん年をとってくると、いやきっと志願したに違いない、と思うようになった。きっと軍国少年になっていたに違いない。
〈半田〉うーん、でもねえ『きけわだつみのこえ』を読んだとき、なんでもっと声をあげることができなかったのか、とそのときは思った。でも、ふりかえって自分があの状況のなかにいたら声を出せたかというと……。
〈三原〉ぼくが育ったところは、戦争に熱狂もしなければ、敗戦にショックを受けて腹も切りはしない。連続した日常が続いている世界だった。勝ったって旗行列もなければ提灯行列もない。負けたからといって泣き喚くヤツもいないわけで、普通に飯食って畑耕してるようにみえた。

 三者三様、それぞれの少年時代の環境によって、「敗戦」の受けとめ方も微妙にちがう。価値観の大逆転と受けとめたもの、戦時中との連続を意識したもの。だが、いずれも戦後は「民主主義教育」の申し子のように、いわゆる「戦後民主主義」に染められていった点は共通している。