第六回 グラマンに襲われた

三原 浩良

◆三度遭遇したが……
 少年時代をすごした松江では、先の座談会で久野さんが語っている、街を焼き尽くすほどの大空襲はなかった。
 ラフカディオ・ハーンが松江をアメリカに紹介していたからだ、などという俗説もあったが、それはちょっと考えにくい。連合軍の脅威になるような軍事施設も軍需工場もなかったからだろう。
 自宅から徒歩十分たらずのところには、陸軍歩兵第六十三連隊の兵営や練兵場もあったが、空爆や空襲はなかった。もっとも、戦争末期の兵営はほとんどからっぽで、兵士たちはみな前線に出はらっていた。
 東に三十キロほどの米子には海軍航空隊の基地や軍需工場があったからB29や空母艦載機の姿を見かけることはあった。夜には東の空が真っ赤に染まる様子も目にした。
 昼間目にするB29爆撃機は、戦闘機をしたがえてはるか上空を悠々と飛んでいたが、あまり上空で現実感はなかった。
 ところが、グラマン戦闘機は突然襲いかかってくる。そんな場面に三度遭遇した。
 最初は終戦前年の秋、空襲警報の甲高いサイレンとほとんど同時に爆音が聞こえた。上級生の引率で十二、三人が隊列を組んで下校しはじめたときだった。あわてて道路わきの田んぼに逃げた。
 教えられたとおり、親指で耳を押さえ、残った四本の指で両目をふさぎ、稲刈りのすんだばかりの田んぼの倒れこむようにうつ伏せになった。耳は爆音でやられないため、目は閃光につぶされないため、と教えられていた。
 しかし、超低空でやってきたグラマンは、わたしたちなど無視して、北の空に消えていった。あっという間のことだった。
 昭和十九年にはまだこのあたりで空襲を受けることはなかったはずだが、稲刈り後のまだ鋭い切り株がおなかにあたって痛かったことを覚えているから、前年秋に違いない。
 二度目と三度目は終戦の年の夏休み中だった。学校近くの川で悪童たち数人で水遊びをしていたところへグラマン一機が突っ込んできた。警報もなく、突然だった。逃げる間もあらばこそ、振り向いた途端に「バリバリバリッ」と機銃掃射の音が鼓膜を引き裂き、耳にはツーンという高音しか聞こえなくなった。
 機はそのまま急旋回して姿を消した。悪童たちに被害はなかった。
 三度目は終戦直前だった。それは確かだ。なぜならこの年の七月半ばに生まれたばかりの妹が居間に寝かせられていたのを覚えているからだ。
 昼下がりだった。警報もなく、突然、鋭い爆音が聞こえた。母は妹を即座に抱きかかえて押入れに押し込んだ。
 わたしはなぜか表に跳びだそうとした。母の制止する声に縁側のあたりでやっと踏みとどまった。すぐに例の「バリバリバリッ」という機銃の掃射音が鳴って、すぐにやんだ。
 後で聞けば、近くの丘に開墾された畑に出ていたおばさんが、真っ白い割烹着を着ていたため、目標にされたのだろうということだった。幸い弾は外れて、おばさんは無事だった。

◆山本健吉氏の機銃掃射体験記
 わたしたちを襲ったグラマンは単機だったが、この日の空襲は実は編隊による組織的なもので、かなりの被害が出ていたことをのちに知ることになる。
 当時の新聞を調べると、わたしが体験した三度目の機銃空襲は七月二十八日のものだった。
「二十八日敵艦載機の郷土来襲も、軍官民一体の敢闘と一般の人達の非常な落付き振りで大した被害もなく終止した」というリードに続き、たまたま機銃掃射に遭遇した記者の体験記を掲載している(二十年七月三十日、「島根新聞」)。

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 ○○駅発上り○○列車は約一時間遅れて発車、発車間際に来襲警報があつたが構はず辷り出した。○○に差しかかるあたり、山の峡で停車する。「暫く此処で退避しますから荷物は身につけて置いて下さい」と車掌がふれ廻る。車内は一しきり騒然とする。すると敵機が見えるとの声、窓から見ると遠くに小型○機が行過ぎる。車掌がガラス窓をあけ鎧戸をたてるやう注意する。弁当を使ひだす男も居た。
 一人の男が、敵機が引返し来ることを注意した。目標を発見したのに違ひない、この列車ぢやないかとフト思つた。誰言ふとなく座席の下にかくれろといふ。思ひ思ひに座席を外して下にもぐり込んだ。相当の人員なので辛うじて低位の姿勢を取つてゐるに過ぎない。私は窓際の紳士と二人で座席を頭の上に支へてゐる。爆音は近づく、息づまる瞬間、ダダダダ……と機銃の音、頭のそばでパツと火花が散る。本能的に身をかはしたが、その時眼鏡がふつ飛んだことと、掌に傷を受けたことを意識する。
 見ると私と一緒に座席を支へてゐた紳士が顔面紅に染めて倒れてゐる。車内に居てはあぶないと皆争つて乗降口や窓から飛び降りた。私も続いて飛び降り、線路側の萱山の急傾斜へよぢ上つて叢にすつかり身をひそめた。(以下略)

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 記事中「○○」と伏字にされているのは、当時は軍事機密として伏せざるをえなかったのだろう。体験記の末尾には「石橋記者」と署名がある。
 誰あろう、この記者はのち俳人、文芸評論家として著名になる山本健吉氏(1907~1988、文化勲章受章、本名・石橋貞吉)であった。
 山本は昭和二十年からわずか一年余だったが、「島根新聞」に在籍、翌年には「京都日日新聞」論説委員に転籍している。戦禍を避けての疎開だったとすれば、皮肉にも機銃掃射により紙一重で一命をとりとめたことになる。
 実はこの空襲、記事のように「被害軽微」ではなく、玉湯町(現松江市)の海軍水上飛行隊基地で二十三名が、また山本氏が遭遇した近くの玉造温泉駅(同)の列車機銃掃射により乗客十名が死亡、多数の負傷者が出ていたのである。
 しかし、この事実は戦後しばらくは伏せられ、かなり後日になってから明らかになった。