第七回 タブー視された? 松江騒擾事件

三原 浩良

 松江の大人たちが「敗戦」を実感したのは、いつだろう。むろん、さまざまな思いで聞いたあの玉音放送だろうが、実感できたのは、その十日後に起きた「松江騒擾事件」ではなかったろうか。
当時わたしは八歳になったばかり。だからさしたる根拠はないのだが、いまごろになってそう思う。
「徹底抗戦派」が引き起こしたこの事件は、ながいあいだある種タブーにされていたのではなかろうか。「松江史誌」などいわば「正史」は、いずれも事件をあっさり書き流してお茶を濁しているような気がしてならない。
「松江騒擾事件」と称されるこの事件が起きたのは、二十年の八月二十四日未明。敗戦からおよそ十日後のことである。

「松江市で降伏反対の皇国義勇軍四十八人(女性八人)、県庁・新聞社・放送局・発電所を襲う。県庁焼失、新聞発行不能」(全員五十一人、女性十四人とも)

「近代日本総合年表」は当時の朝日新聞の速報を引いて、こう記録している。当時はまだ報道管制下であり、当の朝日新聞も「島根県庁焼く」とわずか七行のベタ記事で報じているだけ。襲撃で活字ケースをひっくり返された島根新聞は、急遽タブロイド版で「県庁全焼す」と報じたが、こちらもベタ記事九行だけである。
 市民はいったいなにが起きたのかしばらくは知ることができなかった。
事件のほぼ全容が報じられたのは、一ヵ月後、九月二十六日、関係者が起訴されて、やっと報道解禁となった。
 いま手元にある資料で確かめると、関係者の回想録などをのぞき、その後の取材をあわせて詳細を知ることができるのは、昭和四十年刊の『激動二十年ー島根県の戦後史』(毎日新聞社)、昭和五十八年刊の猪瀬直樹氏による「恩赦のいたずらー最後のクーデター」(朝日新聞社『天皇の影法師』所収)、同年刊の『新聞に見る山陰の世相百年』(山陰新報社)などによってである。
 これら三書のうち猪瀬氏の著述(彼の最初の著作らしい)だけが地元在住者によるものではない。そのことにある種の感慨と衝撃をおぼえる。

◆「大日本帝国最後のクーデター」
 猪瀬氏は玉音放送を聞き違えて「なお乾坤一擲精進せよ」と訓示した市内の軍需工場の幹部のエピソードをまず紹介している。この訓示に期せずして「天皇陛下万歳!」の声が自然にわきおこったそうだ。
 この工場の幹部は「あれは終戦の詔勅だ」と新聞記者から書きとった詔勅を渡され、あわてて全員をもう一度集め「詔勅」を奉読しなおしたという。
 特攻機の部品をつくっていたこの工場の従業員のなかばは動員された中学生だったが、なかには「屈服できない、戦おう」とこの幹部につめよる学生が五人もいたという。
「単に録音の悪さや電波のせいだけではない心理的な要因が、松江ではより大きく作用していた。日本が戦争に敗けたという事実を追認することには抵抗があった」と猪瀬氏は記す。
 ほとんど戦災というほどの戦災がなかったことや、八月十五日午後になっても家屋疎開による建物撤去作業がつづいていたことから「松江地方にとって、敗戦がいかに唐突であったかを物語っている」という。
 こうした松江市民の「敗戦」を受けとめにくい心情を示すエピソードは、各書とも枚挙にいとまないほど紹介している。いわく決起に参加した女性の多さ(決起をうながすガリ版刷りのビラを配ったのは女性たちだった)、決起を知っていた特高の武器貸与の約束、彼らの言動にシンパシーをよせていた県幹部はじめ軍関係者、学生たち……。
「無条件降伏」を受けとめられなかった日本人は決して少なくなかった。敗戦から半月の間の自決者三百二十三人、徹底抗戦を呼号して決起した青年将校や軍人も少なからずあった。
 しかし、と猪瀬氏は続ける。
「この事件は単なる示威行為として県庁を焼き打ちしたものではない。事件の首謀者らは民間人であり、島根県松江市という一地方で決行されたとはいえ、全国的規模の騒乱を前提として計画された、大日本帝国最後のクーデターなのである。県庁焼打事件は全国一斉蜂起をめざしたが東京はじめ各地に伝播、波及することなく消え去った。事件がほとんど注目されることなく消え去ったのは松江という一地方で起きたことや、もはや唐突と思える時間的ズレによる」
 わたしは、戦後生まれの猪瀬直樹氏が、周到な取材によってこの「騒擾事件」を曇りなく掘り起こしてくれたことに感謝する。ややもすると、地元ではこの事件に触れたがらぬ雰囲気を感じていただけになおさらのことだ。
 
 余談になるが、『新聞に見る山陰の世相百年』のなかに高校で二年先輩にあたる郡山政宏氏(故人)のエピソードをみつけたときには驚いた。郡山氏は高校の新聞部時代の畏敬する先輩だった。
 義勇軍は郵便局も襲って通信ラインを切断しようとしたが、失敗に終わっている。郡山氏(当時国民学校六年生)は事件翌日、自宅近い郵便局の床下からそれとは知らず不発に終わって捨てられていたダイナマイト四本を見つけ学校に届けたという。
 後年、テレビ局に勤めることになる彼はこの事件をテーマに「あれから十五年」というラジオドラマを書いたのだそうだ。
 さすれば、猪瀬氏の『天皇の影法師』に先立つこと三年。後年、高校新聞で夜の米軍キャンプ地の直撃ルポを企て、読売新聞から「アカ新聞」と攻撃され、学校側をあわてさせたその人である。