第八回 黒煙あげる武装解除

三原 浩良

「少国民」、いや国民学校下級の「小国民」だったわたしが、「敗戦」を思い知らされたのは、進駐してきた米軍による日本軍の武装解除を目にしたときだったような気がする。。
 昭和四十九年(1974)、季刊誌「暗河」5号に、創作のかたちで小文を書いている。創作とはいうもののほとんど記憶にもとづく記録である。拙いものだが、手を入れずにその冒頭部分を引いてみる。

◆練兵場上空の黒煙を追って
「行くぞ」
 と、僕が誘うとケンも即座にうなずいた。武器を焼くらしい、という噂は数日前から村人たちの間で囁かれていたが、ケンはあの煙がそうではないか、と言うのである。瓢箪を引き伸ばして押し潰したような形の池が村と練兵場の間を隔てていた。下の村々の水田を潤すその灌漑用水池は、瓢箪のくびれの部分でも対岸まで百メートルはありそうな大きな池で、今は水際から水面に伸びた潅木の葉先が水に沈んでしまうほどふくれあがっていた。確かに対岸の練兵場からは黒煙が尾を引いて中空まで伸びていた。
 村の大人たちは、練兵場やここからさらに一キロほど離れた聯隊兵舎に近づくことを僕たちに堅く禁じていた。毎朝、行先も告げずに家を跳び出そうとする僕たちは、かならず同じことを口うるさく聞かされるこのごろだった。土手は渡るな、と上級生たちまでが分別くさく大人の口調を真似てたしなめるのだった。そのくせ彼らだって池の向こうに並々ならぬ関心を持っていることは大人たちが囁きかわす噂話に耳を吸い寄せられる素振りではっきり知れていた。彼らを出しぬいてやりたいという気持も強くはあったが、それよりも僕とケンはあの黒煙の下で今起こりつつあることが招き寄せる誘惑にすっかりとらえられていた。
 何気ない風を装って、僕たちは村の中央を走る白く埃っぽい往還を通り過ぎた。陽はやや西に傾きかけ、自分の影が丈より長く僕の前を急いだ。村のどこからでも視界に入ってしまう土手の上の道を避け、土手下の急な斜面にとりすがるようにして走りぬけ、練兵場の東端に辿りついた。
 練兵場に入ってからは、細心の注意を払って進んだ。一面に僕たちの背丈ほどの夏草が生い茂り、中腰でもまず見つかる気遣いはなさそうだったが、僕たちは兵士たちの匍匐前進を真似て腹這いになって進んだ。ときおり火勢が強まるのか、黒煙が急に高く舞いあがるのが夏草の間からみえたが、前方の小高い丘にさえぎられて仔細はわからなかった。風が急に向きを変えるとき、叫び声とも笑い声ともつかぬ人のさざめきが丘の向こうから微かに運ばれてきた。草を踏みしだく音をたてないようにたっぷり時間をかけて進んだが、それでも息のはずむ音を他人に聞かれているような気がして思わず後を振返ってみた。二人とも半ズボンとランニングシャツが汗を含んでべっとりと体に貼りつき、はみだした腕や脛はあちこち夏草の葉先に傷つけられ、熱をもって熱っぽくなり、ところどころ薄く血を滲ませていたが、どういうわけか痛みも不快もまったく感じていなかった。

◆火炎あげて燃える銃器、刀剣
 やがて丘の頂きに辿りつくと全景が開けた。一面の草原の中央に、いつか双発の練習機がジュラルミンの胴体に受けた陽光を眩しくはじき返していたことがある、コンクリートの長い滑走路が一直線に伸びていた。黒煙は滑走路の中央付近からあがり、煙の下を這うように火焔が走っていた。大人の二倍ほどの高さに積みあげられた塊が燃えていた。そのまわりに真新しい有刺鉄線の柵が張りめぐらされ、柵の内側には銃を肩にかけたり、小脇に抱えたアメリカ兵が五、六人火を遠巻きにしていた。小型の格納庫の前には迷彩を施したジープが二台駐まり、中にも二人の兵士の姿が見えた。火勢が衰えかけると兵士たちはガソリンを罐ごと放り投げ、そのたびにボッとあたりの空気を震わす音とともに焔が噴きあげ、兵士たちが歓声をあげた。黒煙が風に流されるとあたりが急に暗くなり、コンクリートに映っている兵士たちの影がかき消された。
僕とケンは、じっと身じろぎもせずこの光景を眺めていた。(中略)
「あっちへまわろう」
 ケンに目配せすると、僕はいったんこの丘から後退して今度は風上から有刺鉄線の近くまで接近することにした。あのようすではアメリカ兵たちはあまり周囲に気も配っていないようだし、萱の草叢が彼らの視線から僕たちを十分護っていてくれるはずだった。ゆっくりまわりこむと、アメリカ兵たちはもう喋り疲れたのか妙に黙りこくって、みな腰をおろしていた。火は衰え、夕陽を受けた彼らの顔が茜色に輝いていた。
 やがて上官らしいアメリカ兵がジープの中から早口で何か呶鳴ると、兵士たちはヒューウと口笛を吹き鳴らし黒煙の中心に向かって水を掛けはじめた。黒煙はまだくすぶり続け火は完全に消えてはいなかったが、彼らは次々とジープに乗り込むと乱暴にハンドルを切り返して姿を消してしまった。
 すぐ跳びだそうとするケンを押しとどめてもうしばらく待つことにした。いつまた彼らが引返してくるかもしれない。僕たちは言葉も交わさず仰向けになってじっとしていた。草叢をかけぬける風が潮騒のような葉擦れの音を残していった。いつの間にか汗はすっかり引いてしまい、シャツやズボンが冷んやりと膚を包みこんでいた。夏の終わりの近いことを告げる千切れ雲が薄赤く染めあげれて形を変えながら急ぎ足で流れていった。遠くで微かに呼び交わす声がきれぎれに風に乗ってきた。草や木が丘がしだいにその色を失い、黒いひとつの世界に溶けこんでいくこの瞬間は、いつでも僕たちを遠い別の世界に誘い神妙にさせる不思議な力を持っている。小さな胸の奥にまるで冷え冷えとした空気が送りこまれてくるようだった。

◆ゴボウ剣をくすねて隠す
「もういい。行こう」
 僕はケンに呼びかけて起ちあがった。手足を精一杯踏んばって有刺鉄線の柵を押し開きその隙間からケンを入れ、僕も続いた。近づくと油を燃やした後の強い異臭が鼻をついた。黝々とした鉄の塊の奥の方ではまだ小さな焔が走り、そっと触れてみると熱かった。鉄塊はおびただしい数の日本軍の小銃やサーベルや銃剣だった。銃床が焼け落ちてしまった小銃やモール飾りの焼けただれたサーベルはただの鉄屑に過ぎなかった。最も数の多かったのは僕たちが牛蒡剣と呼んでいた銃剣で、鞘をはらうと刀身にまではまだ火の通っていないものを見つけることができた。僕とケンはまだ刀身が輝きを失っていない銃剣を二本ずつ手にすると満足して引き揚げることにした。
 陽はもうすっかり落ち、西の山の端だけが茫とオレンジ色に滲んでいた。池の向こうの僕たちの村にひとつふたつと灯りがともり、水面に長い尾を引いて揺れていた。追いたてられるように帰路は広い練兵場を東端の出口へ向けて斜めに横切った。油でヌルヌルする掌から銃剣が何度も滑り落ちそうになったが、何度も持ちかえては手が痛くなるほど懸命に握りしめていた。村人たちの目を逃れ無事に裏山に馳け込むと僕たちは高射砲陣地に跳びこんだ。ついこの間まで鉄兜に木の葉の迷彩をいっぱいつけた兵士たちが潜んでいた陣地は、今では僕たちの秘密の隠れ家になっていた。銃剣にはまだ温もりが残っていたが、ひとまず壕の隅に埋め、木の葉を敷きつめて偽装した。足元の木の葉で掌についた油をゴシゴシ拭ってから僕たちは別れた。ここから見るとさっきまで僕たちが潜んでいた対岸の練兵場はもうすっかり闇に包まれ、何も見えなかった。(後略)

 記録によれば、米軍が東京に進駐したのは昭和二十年九月八日である。以下、各県に続々と連合軍が進駐してくる。
 松江に進駐してきたのは十一月六日、三個中隊およそ六百名が古志原の旧陸軍第六十三連隊の兵営にやってきた。ずいぶん遅い進駐だ。
 しかし、わたしが見た「武装解除」はまだ夏の熱気が残るころだったように記憶する。冬では記憶と齟齬する。調べてみると、『新聞に見る山陰の世相百年』(山陰中央新報社)に「進駐に先立ってやってきた先遣隊が接収した民間の武器は、銃器七百六十六丁、刀剣二万二千二百十三振」とある。
 おそらくあの黒煙あげる「武装解除」も、この先遣隊によるものだったのだろう。
 同じ資料には「旧練兵場で十九年秋から学徒を動員して飛行場建設が始まったという(一説には地下司令部づくり、と)」という記述もある。
 米軍進駐前に公的機関にはあらゆる公文書類などの焼却命令が出ていたという。まして軍関係機関には軍旗焼却などもっと厳しい命令が出ていたはずだから、米軍進駐時にはほとんどが処分されていたに違いない。
 やはり『新聞に見る山陰の世相百年』には「第六十三連隊のあとには宮崎・高鍋から陸軍第九航空教育隊が移駐。ここでパイロットを養成。98式軽爆撃機二十八機は終戦時十機に減っていたが、焼却された」とある。
 二十八機はおろか十機も目にしたことはない。本当にそんなに駐機していたのだろうか。わたしの記憶では「飛ばない飛行機」一機だけがポツンと練兵場に駐機していたが。
「いや、あれはハリボテだったんだよ」という人もあって、真相はいまとなっては確かめようもない。
 戦後、連隊兵営跡地に県立高校が建設された。最近、その改築工事のさい地中から錆びついたでかいプロペラが掘りだされた。おそらく敗戦処理であわてて地中深く埋められたのだろう。それにしてもプロペラだけとは!