第九回 消えた奉安殿、消されかけた図書

三原 浩良

◆「奉安殿」が学校から消えた
 小学校の正門のわきに「奉安殿」があった。さほど大きくはないが白壁土蔵づくりの重厚な建物で、登下校時にはかならず最敬礼をして通った。
 奉安殿といっても、いまの若い人にはさっぱり見当もつかないだろうが、戦前の小中学校にはその設置が義務づけられていた。
 事典には「学校に下賜された<ご真影>(両陛下の写真)や教育勅語などを安置する建物」とある。
 その奉安殿が、戦後まもなく学校から姿を消した。
 学校の講堂の壇上背後は大きな木造の引き戸になっており、ここにも「ご真影」があった(はずだ)。おそらく祭礼のときに奉安殿から運びこまれるのだろうと思う。何度かこっそり開けてみようとしたが、引き戸は鍵がかかってビクともしなかった。校長がうやうやしく開けるときには低頭黙礼なので、「ご真影」を目にした記憶はない。
 この時代の「天皇」は「神」だった。
 関東大震災のとき、この「ご真影」を火災から守ろうとして何人もの校長が焼死、殉職したために、さらに管理が厳重になり、昭和十年ごろから「御真影」はますます神格視されていったという。
 奉安殿は学校だけに設けられていたわけではない。
 終戦直後に起きた島根県庁焼き打ち事件のさい、ときの知事がまず心配したのは「知事室正面にある奉安殿の<ご真影>だった。すでに地下避難所に移されていると聞き、その前に椅子をおいて指揮をとった」という(内藤正中『島根県の歴史』)。

 いま、『島根県近代教育史』(昭和54年刊、県教育委員会編)第七巻・教育史年表の昭和20年の項をみると――。

  ・戦時教材の省略・削除通達(墨塗り教科書)
  ・学校の銃剣道・教練廃止通達
  ・武道を学校から排除通達
  ・修身・日本史・地理の授業停止と教科書回収の覚書
   (この項「近代日本総合年表」)
  ・国家神道排除に関する覚書(同上)

などなどGHQ(連合軍総司令部)の指示・命令で文部省から次々に通達・通牒が出されている。「奉安殿」撤去はこの「国家神道」排除覚書によるものだろう。
 後日の新聞記事によれば、「20年11月末、各学校や役所にあった勅語、ご真影の類はひそかに回収され、松江市外中原の県立盲啞学校の焼却炉で焼かれた」(『新聞に見る山陰の世相百年』)。「県内から集められた<ご真影>はおよそ六百枚だった」という(『激動二十年―島根県の戦後史』)。
 この年、十一月には連合軍が松江市に進駐する。そのことと無関係ではあるまい。敗戦から三ヵ月、すばやく、ひそかに「ご真影と勅語」は姿を消した。
「勅語とご真影」は「奉還」すべしと指示されたが(返還と言ってもどこに返せばよかったのだろう)、島根県では焼却された。
 わが母校、「津田小学校沿革史」の年譜には昭和二十一年「七月二十二日、奉安殿撤去作業開始」とある。占領軍進駐と同時に「ご真影と勅語」がまず焼却され、翌年に奉安殿が撤去されたようだ。

◆占領軍に迎合する人たち
 しかし、燃やされたのは武器や「勅語」だけではなかった。
 藤原治『ある高校教師の戦後史』(岩波新書、1974年)によれば、島根県はGHQの命令だとして国民学校や中学校から所蔵「図書」を回収して、これを再生用に製紙会社に売りわたそうとしたという。
 藤原治さんは、わたしの新制松江高校時代の歴史の先生だった。授業で教わったことはないが、親しくしていただいた恩師である。そのことはまたくわしく書く機会もあると思うが、藤原先生は終戦直前に東京から郷里・松江に帰り、昭和20年秋から旧制松江中学の教壇にたつことになった。
「終戦」といって「敗戦」とはだれも言わず、「そう言うことには当時危険も感じられた」そうだが、藤原さんはあえて「日本の敗戦」を授業でとりあげた。
 しかし、生徒の反応は「許しがたいというように目を光らせているもの、反抗的に質問するもの、沈鬱にだまりこくっているもの、なにをいってもへらへら際限なく笑っている生徒など」がいた、と当時のすさんだ教室の風景をつづっている。さらに―。

 20年の暮れには松江にも占領軍が進駐してきた。慰安婦が幌をかけたトラックで連隊あとの米軍兵舎に運ばれていった。ジープがかけまわり、町のまん中の車一台通りかねる殿さま時代以来の狭い道路、狭い橋が、たちまち大きくつくりかえさせられた。
 その冬、「進駐軍の命令」で除雪させられた。松江というところはむかしから自分の家の前わずかしか除雪せず、ほかは全然かまいつけない家もあるところである。もと県庁の役人で、戦後新聞社へ出ていたある町内会長は、「進駐軍がお通りになるので、今朝はみんなで雪かきします」と、わたしたちを集めて訓示した。

と苦々しげに書いている。
 松江にかぎらず、学校にかぎらず、お役所などに「にわか民主主義者」や占領軍の「お先棒」かつぎがあらわれて顰蹙をかったことは数々の記録が示している。

◆学校の「図書一切回収セヨ」
 ここにまた、とんでもない「お先棒」かつぎがあらわれて、藤原さんたち歴史教師たちを右往左往させる。同書によってその経緯を追ってみる。
 昭和21年4月、島根県による「直接間接ヲ問ハズ修身・国史・地理ニ関スル図書一切」の徹底的回収事件が起きた。先にあげた「覚書」にもとづくものであろう。
 だが「覚書」には「教科書」とあって「図書一切」とはない。
 ところが、島根県の内政部長は松江市内の学校を巡回して「進駐軍の命令だ」と「図書一切」を没収した。
 旧制松江中学には創立以来の膨大な蔵書があり、「群書類従」から「国史大系」「本居宣長全集」「大日本古文書」などなど貴重な図書がごっそり「回収」されてしまった。のちの調査では、島根県では他校あわせて八十七万余冊が「没収」されていた。
 これは一大事と、藤原さんら歴史の教師たちはその返還に奔走する。県ではラチがあかないので、上京して文部省や終戦連絡中央事務局、GHQ(連合軍総司令部)ともかけあい、結局、返還を実現させる。
 しかし、このころ県は「回収図書」をひそかに製紙会社に送り、再生用に溶かしてしまおうとしていた。送りだしの寸前「司令部ト協議中ニ付、処分ノタメノ発送見合セラレタシ」との電報が県の内政部長に届き、発送にストップがかかった。
 かくして旧制松江中学への図書返還は実現したが、県内の一部の図書は広島の再生工場に送られて溶解されてしまったらしい。
 島根にかぎらず茨城、佐賀など他県でも同様の事件が発生、その一部を文部省が回収し、再生資源として日本故紙統制組合に払い下げてしまったという。しかも有償で。つまりは回収した「図書」を業者に払い下げてカネを得ようとした(得た)不届き者がいたのである。
 しかし、戦後のどさくさにまぎれて全国で起きたこうした不祥事件は、闇から闇に消え、いまだ真相は杳として不明のままだという。
 藤原さんが『ある高校教師の戦後史』によって、この事実を明らかにしたのは昭和四十九年(1974)。だが、昭和五十四年(1979)刊行の『島根県近代教育史』は、この事件には一行も触れていない。