第十回 シンチュウグンがやってきた

三原 浩良

◆轟音あげて驀走するジュウリンシャ
 わが家の二階に下宿していた軍医さんの姿が、いつのまにか消えていた。
 鼻下にひげをたくわえ笑顔をたやさぬ大柄な人だった。家では和服ですごしていたが、朝になると軍装に着替え、長いサーベルを吊って、徒歩7、8分ほどの連隊本部に出勤する。
 だからそのころのヘイタイさんのイメージは、おだやかな笑顔とともによみがえる。軍医さんは敗戦によって郷里の四国に帰っていった。
 入れかわりに、連隊兵営に進駐軍がやってきた。もちろん二年生坊主のわたしに「シンチュウ」の意味などわかっていない。戦時中の「キチクベイエイ」だって耳は記憶していても、「鬼畜」も「米英」もよくわからない。「軍国少年」一歩手前で敗戦を迎えた世代である。ガイジンさんを見るのもはじめてのことだった。
 大人たちのあいだでは、占領軍がやってくると「女はすべて犯される」「男はすべて沖縄に連行される」などの流言蜚語が飛びかっていたらしい。県知事は「婦人は媚態を慎む。青少年は戦時下の気分を一掃し友好的な気分を持つ」と訓示を垂れていたが、だれもうわさにおののいたり、逃げだそうとする気配などなかった。
 やがて「友好的な気分」が行き過ぎたのか、警察は「物品をみだりに請求しない。将兵のあとからついて歩かない」と警告したというが、子どもたちは恐怖心より好奇心に負け、誘い合わせてはこっそり旧連隊本部の正門前あたりをうろうろした。
 たしかそんなヘイタイさんに撮ってもらった手札大の写真があったはずだが、いまいくら探しても見つからぬ。記憶に残るその写真のなかのわたしは、つぎはぎだらけの寸足らずのズボンをはき、足元は草履ばきだった。撮影後にプリントしてくれたはずだから、そのヘイタイさんとは少なくとも二度は会っていることになるが、どうして会えたのかさっぱり思いだせない。
 兵営の正門を出入りするジープの兵隊たちは、長い脚を投げ出し、いつもガムをかみ、リラックスしていた。きのうまで戦った敵国に進駐した緊張などはまったく感じていないようだった。
「ジュウリンシャ」というのも初めて見た。日本軍のトラックの車輪は四つだったが、かれらのトラックは数えてみると四つの後輪は二重になっており、合計十個の車輪がついていた。なるほど十輪車だ。そのジュウリンシャが何台も轟音と埃を巻き散らして街を驀進していった。

◆鍬ふりあげて黒人兵を追返す
 進駐してきたのは、たしかに「連合軍」だった。ヤンキーらしい陽気な米兵、鼻梁の通ったピンクの顔のイギリス兵、黒褐色の哲学者を思わせる無口なインド兵があいついでやってきた。
 資料によれば、島根県への連合軍の進駐は二十年十一月、まず米兵一千名、うち六百名が松江へ。翌二十一年四月には米兵にかわって英豪軍六百名、二ヵ月後には英印軍一千名が二十二年八月まで駐留したという(『新修松江市誌』)。
 彼らは農家の軒先や庭にいきなり入ってきた。門構えや塀のある家など一軒もない田舎のこと、戸締りなどしている家はなかったから、いつでもどこからでも入れる。日暮れ時に歯の白さだけが目立つ黒人兵がいきなり庭先に顔をだし、びっくりして逃げだしたこともある。
 彼らは物珍しさから訪ねてくるようで、タチの悪いわるさをする兵隊はあまりいなかった。時折り腕時計や光りものをかすめとったり、そこらの木から柿の実をもいで口に入れる程度のことだった。
 そんなある日の夕方のことだった。
 近所のモンペ姿のお姉さんを、黒人兵が突然追いかけはじめた。お姉さんは悲鳴をあげて畑の中を一目散に逃げる。大柄な兵隊が追いつくのは時間の問題だと思われた。
 その時だった。お姉さんの親爺さんが、鍬をふりかざし「ウォーッ」と大きなわめき声をあげて、兵隊を追いかけはじめた。兵隊は驚いて逃げていった。
 まれにそんな「非友好」的なこともあったが、たいていは友好的に過ぎていった。

◆独立記念のカレーライス
「あんたは四年生だったから知らんだろうがな、わしら六年生はインド兵にカレーをご馳走になったよ」
 いまや八十に手の届く先輩が最近になって少しばかり誇らしげに教えてくれた。兵舎に招かれたのは上級生だけだった。
「ほう、それで牛肉が入っていた?」
「いや、よう覚えとらんなあ」
 なぜそんな質問に及んだか。九十代の古老から「インド兵はなあ、緬羊をいっぱい連れて道を歩くもんだから臭くて困ったなあ」と聞いたばかりだったから。
 カレー招待日には兵営から花火までうちあげられ、大歓迎を受けたという。それにしてもインド軍は駐留先で緬羊まで飼育していたのか。

「松江市民に親しまれた古志原の英印軍部隊はさる十五日の印度独立祭の学童招待を最後に本国へ引揚げることになり、隊長パカーシ中佐は二十八日夜松江駅出発を前に市民諸君へのお別れのステートメントを発表」し、今後の友好を期待して去ったという(「島根新聞」昭和二十二年八月二十九日)

 一九四七年八月十五日、インド独立。この日から英印軍(英領インド軍)は晴れて独立インド軍となった。その歓びが兵舎でのカレーライス招待となったようだ。

◆テニスボールのプレゼント
 小学校の前に大きな門構えの広大なお屋敷があった。門はいつも閉じられ、周囲にも高い塀がめぐらされ、なかの様子をうかがえない。
 この屋敷は連合軍に接収され、軍政部の高官らしい一家が住んでいた。主は軍服のこともあれば背広姿のこともあった。
 やがて彼の姿を学校でもよく見かけるようになった。校庭にもよくあらわれ、大量のテニスボールくれたり、珍しい運動をカタコトの日本語で教えてくれるようになり、子どもたちもなじんでいった。何よりもこの硬式テニスボールのプレゼントが彼の人気を高めた。
 それまでは手作りのボールやバット、グローブで、三角ベース野球に熱中していた。ボールは丸い石やラムネ玉を芯にして、周囲を綿やボロ切れでくるみ、凧糸で縫いあげたしろもの。バットは雑木をけずった凸凹のある棒。グローブはたいてい母親にせがんでつくってもらう。誰もホンモノを手にしたことがないので、四本指があったり、三本指があったり、まあでかい手袋だ。
 このボール、うまく芯に当たれば「カーン」とまるで硬球を打ったような鋭い音を発するが、ゴロを打つとボールはすぐに糸を引いて、やがてほどけてしまう。
 戦後の少年野球ブームについては阿久悠の『瀬戸内少年野球団』に詳しい。全くあの通りだった。阿久悠によれば、当時の少年雑誌の付録にグローブの型紙がついていたということだが、これは残念ながら記憶にない。
 テニスボールのプレゼントはありがたかったが、難点は飛び過ぎること。すぐに校庭を飛び出して田んぼの中で行方不明になってしまう。
 わが「津田小学校沿革誌」には「昭和二十年十一月三日 松江進駐軍のテーマイヤー代将より学校へボール寄贈あり。三時よりその伝達式挙行」とある。
 十一月三日にはまだ占領軍は松江に進駐していない。おそらく翌年の間違いだろう。そうか、あの陽気な将校はテーマイヤーと言ったのか。
 いや、待てよ。先の『新修松江市誌』は「(インド軍の)旅団長はチマーヤー准将、その宿舎は西津田町の永井邸であった」と記している。
「テーマイヤー代将」と「チマーヤー准将」。カタカナ表記の名前も階級もちがうようだが、おそらく同一人物だろう。ボールの寄贈が二十一年十一月のことだったとすれば、彼はインド軍の将校だったに違いない。
 占領下の日本側の資料はいささか混乱している。
 米軍や英軍の兵士たちは、子供心にもどこか日本人を見下しているようなところがあったが、インド兵からはそんな感じは受けなかった。
 インド兵が故国に帰っていった昭和二十二年、教育基本法、学校教育法制定。それまでの国民学校は、小学校と名前が変わった。