第十一回 カオスのなかの新制中学

三原 浩良

◆校舎は間借り、ビンタの毎日
 昭和25年(1950)春、新制の松江市立第四中学に入学した。
 学制改革で誕生した新制中学は、まったくのカオスだった。
 校名にしてからが、ドサクサ紛れにかなりいい加減につけられたのではないか。街の中心部(県庁、お城)に近いほうから一中、二中……と割りふり、わが四中のあとにはさらに郊外の五中と、五つの中学が誕生した。それに島根大学の付属中学。
 岩波の近代総合年表に「財源難で中学校舎の建設はかどらず」とある。わが四中にも校舎がなかった。そのため、隣の三中に間借りして新学期を迎えた。と言っても、その三中も工業学校の旧校舎に入居したばかり、工業学校は陸軍連隊の兵舎を改造して移転していった。
 新学制のスタート時は全国どこでもこんな玉突きでやりくりしていたに違いない。教室も机も教材もすべてお古のないない尽くし。空襲や戦災にあった大都市ではもっとひどかったにちがいない。
四中の「沿革概要」によれば―。

 昭和22・4・1 松江市立第四中学設立
  同  4・16 本校を津田小に付設、分校を県立松江商業に委託して開校
 昭和23・4・1 本校を県立工業学校に移転
 昭和25・12・9 現在校舎に移転完了統合(のちさらに移転する)
 昭和26・3・18 校歌・校旗制定 

 間もなく仮住まい校舎から旧商業学校校舎に引っ越した。
 しかし、混乱は続いていた。この年6月、朝鮮戦争が勃発、世の中は騒然としていた。そんな社会の混乱の反映だろう。校内もざわざわとして落ち着きがなかった。
 その混乱が端的に現れていたのが教師の暴力ではなかったか。
 よく殴られた。特別ワルだったわけではないと思うのだが、男子は例外なくほぼ全員が毎日のようにビンタをもらった。女教師からもチョークや黒板消しが飛んできた。体罰が日常だったから、特別なこととは思わなかった。
 どれも他愛のない理由からだ。私語が多い、授業を聞かない、始業時間にそろわない……。あるとき、昼休みにバスケットに興じ過ぎて、十人ばかりが音楽の授業開始に遅れた。全員整列させられ、二十歳過ぎの熱血音楽教師から順番にビンタをもらった。
 うち一人の鼓膜が破れてしまった。さすがにこの教師もやり過ぎたと思ったのか、辞表を出す、受け取らぬという騒ぎになったらしいが、結局何のお咎めもなし、鼓膜の破れ損ということで幕となった。 それも日常のひとこまとみんな受け止めていた。
 それにしても、よく殴られた。後年、当時の教師、・加納益雄先生に尋ねてみた。
「あのころは、どうしてあんなに殴ったのですかね」
「自分でもよくわからんが、おそらく我々教師もどうしていいのか分からなかったのだと思うな」
 そうだったろうな、と何となく納得した。まだ敗戦後の混乱が続く時代だった。

◆ラジオに魅せられて
 小学校高学年の頃から鉱石ラジオに夢中になった。
 小指の先っぽに乗るほどのあのちっちゃな石っころが、空中を飛ぶ電波をつかまえてレシーバーの奥から雑音まじりの音楽やニュースがきれぎれに聞こえてくる。中学にはいると何とかして真空管とスピーカーの本格的なラジオを作ってみたい思いが膨らんできた。
 愛読書は誠文堂新光社の月刊「初歩のラジオ」。付録に実物大の配線図がついていて、いやでもラジオ少年の気持ちは高ぶる。
 二度母にねだってみたが、真空管一本の値段を聞くや、母の返事は即「無理」。だが、どうしても真空管のラジオが作りたい。毎日のようにラジオ屋のショーケースに並ぶピッカピカの真空管や色とりどりのコンデンサーを飽かず眺めてはため息をついていた。
 思いあまって、通学路の途中のラジオ屋に飛び込んだ。
「何でも手伝いますから、ラジオの作り方を教えてください」
 ラジオ屋さんのお兄さんは親切な人で「社長に聞いてみる」と言ってくれた。「無給でもいいなら」と社長も認めてくれ、ラジオ屋の小僧になった。
 放課後になると、脱兎のごとくラジオ屋に駆け込む。そのころのラジオ屋には毎日のように、修理依頼があった。ラジオ屋のお兄さんは新品売り込みのかたわら、修理も担当している。雑音しか出なかったラジオも部品を取り替えると、生き返ったように澄んだ音を出す。
 そのうち、簡単な修理ならできるようになった。持ち込まれたラジオのスイッチを入れる。裏蓋を開けてみると、中に灯りのつかない真空管がある。こいつは簡単だ。真空管を取り替えてやれば元に戻る。
 真空管には異常がなくても雑音しか聞こえないのもある。雑音を聞きわけて故障の原因に見当をつける。テスターで電圧を測ってみると、電流の流れがおかしい。コンデンサーや抵抗がいたんだり、接触不良や断線の場合もある。簡単な修理ならできるようになった。修理をすれば必ず不良部品が出る。それをもらうのがラジオ小僧の唯一の報酬。不良部品を集めてラジオが一台できないか、というのがひそかな狙いである。
 まだ使えぬこともないが、替えたほうがいいだろうと思われる部品は思い切って取り替える。しかし、不良真空管や不良部品だけで一台のラジオ組み立てるにはやはり無理がある。
 そこで日曜日には別のアルバイトを始めた。近くの魚屋さんに小魚を分けてもらい、自転車で行商した。中学生の魚の行商がそうそううまくいくはずがない。売れ残りを叔父の会社の社宅の人たちにお情けで買ってもらった。自力で売ったものより、お情けで買ってもらった方が多かったかもしれない。
 そんなアルバイトで貯めたお金でひとつひとつ部品を買いそろえ、取り替えた不良部品と組み合わせて、いよいよ自分のラジオを組み立てることになった。

◆夢の5球スーパーヘテロダイン
 なんとか集めた部品で組み立てられるのは、並製三球ラジオ、略して「並3」。電波をつかまえる検波管、交流を直流に変える整流管、出力管の三本の真空管だけからなる最もちっちゃなラジオである。
 雑誌の付録の配線図に従って半田鏝で半田づけしていく。最後にスピーカーを接続して完成。もう一度配線図と照合・点検して、恐る恐る電源を入れる。「ブーン」という聞き慣れたハムが聞こえる。バリコンをゆっくり回して電波を捕らえにかかる。だが、どうしたことかさっぱり聞こえない。それもそのはず、もう明け方、とっくに放送時間は終わっていた。
 自作のラジオからはじめてNHKの電波をとらえた瞬間の、肌が粟立つような、身が震えるほどの興奮と歓喜……。こんなに興奮した瞬間は、のちの長い人生でもふたたび経験することはなかった。でも、同好の士以外にはなかなか理解してもらえないだろうなあ。
 ところが、「並3」のラジオでは、地元のNHKの電波しかつかまえられない。真空管を一本増やし「並4」にし、松の大木によじのぼってアンテナを張りめぐらしたが、この年(昭和26年)9月にはじめて開局した民間放送(新日本放送、のち毎日放送)の電波は深夜になってもかすかにしか聞きとれない。
 大阪からの電波をつかまえるために、どうしても「五球スーパーヘテロダイン」、真空管を五本使う高性能のラジオを作りたい。しかし、真空管も増えるし、高価な部品を買いそろえないと無理なのだ。
 次々に欲が出てきて再びアルバイトに精出し、ついにやっと憧れの「五球スーパー」をつくりあげた。さすがに音質もよく、遠くの電波も難なくとらえてくれる。この年は民間放送元年で、新日本放送につづいて朝日放送、ラジオ九州、ラジオ東京と民放ラジオが続々と開局、夜の空はまるで電波銀座、その混雑の中を目指す電波をつかまえにいく愉しみはこたえられない。
 民放ラジオの番組で、僕のお気に入りは「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だろう……」というテーマソングで始まる川田晴久とダイナブラザーズのコントにギター、アコーディオンの軽快なバンド演奏を組み合わせた番組だった。確かスポンサーは電気ブランじゃなかったか(電気ブランという不思議な酒を実際に口にしたのはずっと後年。当時は電気ブランが電気とブランデーをくっつけた造語とは知る由もない)。
 NHKの人気番組だった三木鶏郎の「日曜娯楽版」も「陽気な喫茶店」も、その放送時間になると銭湯が空っぽになると言われた「君の名は」も、「とんち教室」も、このラジオで家族そろって聴いた。
「銀座カンカン娘」「長崎の鐘」「水色のワルツ」「上海帰りのリル」「モンテンルパの夜は更けて」「テネシーワルツ」などなど、当時の流行歌はすべて自作のラジオで覚えた。