第十二回 ラジオ少年のヒロシマ慰問

三原 浩良

◆ラジオ小僧、放送室を占拠?
 さてラジオ少年はその後、どうなったか。
「当時は物品税が高価で、メーカー製完成品を購入するよりは真空管などの部品を買い集めて自作したほうが安かったために、受信機を製作する人が多かった。彼らは<少年技師(後のラジオ少年)>とも呼ばれ、高度成長期の日本のエレクトロニクス産業の発展の基礎を作る要因の一つともなった」(ウイキペディア)というのだが。
 福岡で活躍する旧知のイラストレーター・広野司さんは、地域文化誌「西日本文化」の表紙を毎号、独自の手法で飾っているが、二〇一二年の八月号には古いラジオに配線図をあしらっている。
 その「表紙の言葉」に「少年のころはまだラジオの時代でした。中学三年生になって、当時普及していた真空管式5球スーパーラジオを組み立てたことがあります。配線図と部品を手にしたときは、高揚した電波少年でした。コイル巻きにハンダづけと慣れない作業の配線ミスで、煙が出たり音が聞こえなかったりと、スピーカーからの音声の待ち遠しかったこと」とある。
 ここにもラジオ少年がいた、と思っていたら、前回の「ラジオに魅せられて」を目にした行きつけのピアノバーのマスターからメールが届いた。
「実は僕も同じ道? を辿りました。ただ、スタ-トは鉱石ラジオではなくゲルマニュームダイオードでしたが。中間周波トランスを使ったST管五球ス-パ-を作ったのが最後のラジオで、中一でした。それから送信もしてみたくなり、無線小僧に変身して中三でハムの免許をとり、今思えば中学時代はコ-ド、楽典など一切知らず頭の中はオ-ムの法則だけだったような……」
 ああ、ここにもラジオ少年がいた。
 どうやら、わたしのようなラジオ小僧が日本じゅうにいたらしい。
 しかし、「日本のエレクトロニクス産業発展の基礎」となったほどのご仁は身近には見当たらぬ。
 いや、待てよ。小学校の鉱石ラジオ仲間だったHは、のち大手電算機メーカーの営業マンとしてスパコンの売り込みに世界じゅうをかけめぐったと言っていた。やはりいた。後年のエレクトロニクス企業戦士も。

 しかし、目まぐるしい速度で電化製品やラジオは進化を始めだした。真空管もガラス管からGT管、さらにはミニチュア管と、あれよあれよという間にどんどん小型軽量化していく。やがて革命的なトランジスターが登場するのだが、この進化にはとてもついていけない。知識もそうだが、なにより財布が間に合わない。
 そこで思いついたのが学校の放送室。あそこには校内放送用のアンプがある。あれを操れないか。幸い? 電気関係にあまり詳しい先生はいないらしく、機材の保守・管理はすべて近所のラジオ屋さんまかせだった。
 早速そのラジオ屋のおじさんと仲良くなって、学校公認? でアンプにさわらせてもらえるようになり、いつのまにか職員室の片隅にあった放送室出入り自由の身。授業が終わるとほとんど狭い放送室で過ごすようになった。
 さてこれを使って何をやるか。まずは放送部をたちあげることにした。幸い同級生の池チャンこと池内英之君はNHKの児童放送劇団員で、放送局にも出入りしているアナウンサー志望。「池チャン」なんて呼び方も放送局の大人たちの真似である。
 ドラマをやるか、それとも歌番組……。わたしの企画はみんなNHKラジオの人気番組のコピーばかりだったが。

◆ラジオ小僧、ベートーヴェンを弾く
 二年生になったころ、ないない尽くしのわが中学校にやっとピアノがきた。入学したときにはオルガンしかなかった。
 ピッカピカの管楽器がそろい、ブラスバンドが盛んないまの中学生には想像もつかないだろうが、ラッパどころかピアノすらなかったのである。この年、ピアノといっしょに校歌もできた。
 さて、その新品のピアノ開きをやることになった。何とナント、その大役をラジオ小僧がおおせつかったのである。
 いまではピアノのない家のほうが珍しいだろうが、当時は家庭にピアノなんて、夢のまた夢である。父が音楽教師のわが家にだってオルガンしかなかった。
 ビンタをよくもらった熱血音楽教師は、わたしの父が音楽教師であることを知っていた。おそらくそのせいだろう。
「ちょっと弾いてみろ」
 そう言われても、本物のピアノに触るのははじめてである。家のオルガンでなんとか見よう見真似で教則本のバイエルを終えたばかりのころだった。
 熱血先生は、子供のピアノ発表会の定番ともいえるベートーヴェンの「エリーゼのために」を弾けという。
 さあ、大変だ。連日の特訓でなんとかいけそうになったところで、ピアノ開き当日を迎えた。楽譜なし、暗譜でやれという。
 すべりだしは無難に流れだしたのだが、緊張のあまりミスタッチから途中でくりかえすべきところを間違えた。楽譜がないからパニックだ。えいままよ、と適当に弾いて終わらせてしまった。だれかミスに気づいたか? と心配になったが、何も言われなかった。なんともお恥ずかしいピアノ開きのお粗末だった。
 そんなわけで、ラジオ小僧は「エレクトロニクス産業発展の基礎」にもなれず、ピアノはトラウマとなり、友人たちは「男の癖にピアノなど弾く軟弱なヤツ」とみている雰囲気ありあり。いずれもモノにはならずじまいだった。

◆映画「原爆の子」感想文で広島慰問
 昭和27年(1952)夏、映画「原爆の子」が封切られた。たしか学校からみんなそろって映画館に見にいった。
 広島の小中高校生たちの被爆手記が本になり、それをもとに新藤兼人監督がつくった原爆の悲惨を訴える劇映画だった。たしか乙羽信子の主演、宇野重吉もおぼえている。
 広島と松江は中国山脈で背中合わせ、日本海側と瀬戸内側の違いはあれ、同じ中国地方の地方都市だったから人の往来はけっこう多い。
 広島から戦後帰省した母の友人のおばさんが、原爆の惨禍をよくこぼしていた。おばさんが連れてくるふたつ三つ年下の息子は、原爆のため毛髪がすっかり抜け落ち、顔も青白くいつも体調がわるそうだった。
 学校では映画「原爆の子」の感想文を募集していた。何となく応募したら、一等賞になった。市内の六中学全校で感想文を募集し、各校の一等受賞者は被爆孤児の慰問をかねて広島に派遣されるというおまけがついていた。
 翌年の春休みだったか、他校の受賞者たちといっしょに被爆八年目の広島市をはじめて訪ねた。
 被爆の悲惨さは映画でわかったつもりになっていたのだが、やはり現場に立つとショックだった。市内あちこちの被爆モニュメントを訪ねたように思うが、鮮やかに覚えているのは銀行の玄関の石段にはっきりと人影が焼き付けられたまま残っていたこと。
 この影だけを残して、原爆の高熱と放射線の直撃を受けたその人は瞬時に蒸発してしまっただろうと聞かされ、あまりの生々しさにみんな息をのんだ。
 広島湾の海べりにあった原爆孤児たちの収容施設(似島学園か)を慰問に訪ねたときも、暗い気持になった。同じ年ごろの子どもたちが、ここに寄り集まって暮らしていた。
その何倍、何百倍もの子どもたちが命を落としていた。何と自分たちは恵まれていることか、と思わざるをえなかった。
 中学時代、最終学年の忘れられない一コマである。

 今年、喜寿の高校同窓会で、数十年ぶりにSに会った。
「確か中学のとき、いっしょに広島に行ったよなあ」
「うん、行った。あの銀行の石段の人影はおぼえてるよ」
「この前の同窓会は『ヴェトナムに出張で欠席』とあったな」
「うん、そうヴェトナムだった」
「菅直人と原発の売り込み?」
「まあ、そんなとこだったかな」
 Sは物理を専攻して、永年原子力研究機構(現在は原子力開発機構と改組)に勤めていたと聞く。
「因縁だなあ」とつぶやくと、彼「因縁?」といぶかしそうな表情。
 いきおい話は、フクシマの原発事故になる。
「東大と官僚、いや個人ということではないよ。そのシステムだな」
 このふたつが事故処理を混乱させた元凶だと彼は断言した。