第十三回 「63制野球ばかりが強くなり」

三原 浩良

◆ヤスノリの剛速球
「うん、あれが自信になった。あとの人生のな」
還暦記念の小学校の同窓会に出たときのことだ。十五年も前になる。
 ぐいぐい杯をあけるミノルが、ふいにまじめな顔にもどってつぶやいた。
「あれ」とは、中学三年秋の野球部の県大会優勝を指す。わたしにも瞬時に「あのとき」の興奮がよみがえってきた。
 
 七回裏二死、ヤスノリはケンイチのカーブのサインに首を振り、自慢の速球を投げ込んだ。ヤスノリはこの試合を三振で締めくくりたかったのだ。が、相手打者も懸命に打ち返す。力ないゴロがヤスノリのグローブにおさまり、一塁のテツヤに送られて試合は終った。
 1-0、われらが松江四中の初優勝がきまった。
 グラウンドのナインたちには今どきのようなハイタッチもなければ、抱きあう姿もない。淡々とした幕切れだったが、スタンドの応援席は歓声と拍手、どよめきで興奮の渦である。
 昭和27年(1952)9月23日、だれも予想だにしなかった創部四年目の県大会優勝だった。

 用紙不足から新聞はまだ四ページの時代だったが、翌日の地元紙の社会面には「松江四中に栄えの優勝旗―島根中学野球」と六段の大見出しが踊り、記事と写真がほぼ全面を埋めつくしていた。
 紙面の片隅に「辺境の選挙戦」の連載記事がみえる。
 人口六百人足らずの半農半漁の中海に浮かぶ江島からのレポートは、豪雨が畑作に大被害を与えたため、長い伝統を破ってこの夏はじめて「数名の若者を島外へ出稼ぎに送り出した」と伝え、「都会への富の偏在政策をとる吉田さんにはあきあきした。今度は社会党か改進党に譲ってもらいたい」という島民の談話で結ばれている。
 吉田さんとはむろん吉田茂首相。抜き打ち解散による総選挙の真っ最中だった。結果、自由党240議席の圧勝、この島民の願いは届かなかった。

◆街の子と田舎の子
 先のミノルの述懐には少し説明がいるが、まずはその背景から。
 5年前の学制改革で6 3制がはじまり、われわれは新制中学第四期生。校名はお城に近いところから順に一中~五中とつけられ、カオスのなかで中学生活がはじまったことは前に書いた。
「63制野球ばかりが強くなり」と揶揄されるほど全国の小中学生に野球熱が広がっていた。
 わが四中は津田小と雑賀小の卒業生で構成されていた。津田はその名のとおり、田んぼと村を東西に貫く大川の水にはぐくまれた農村地帯。他方、雑賀もその名が示すように雑賀族、江戸時代の鉄砲隊が住む足軽町に由来する。こちらは市街地だ。
 両校からの構成比は津田2、雑賀8、圧倒的に雑賀が多い。
 雑賀小の卒業生は大半が商店など自営業や勤め人の子どもたち、〝町の子〟である。他方、津田小の卒業生のほとんどが農家の子、およそ百人のうちサラリーマン(なんてまだ呼ばなかった。わが田舎では『弁当持ちサン』と呼んでいた)の子どもはわずか三人ほどだったと記憶する。
 この両校の卒業生がいっしょになったのだから、なかなか一体感が生まれにくかった。町の子たちには田舎の子を軽んずる風があり、他方田舎の子たちは町の子にやや引き気味だった。

 ふたたび興奮のるつぼの松江市民球場。
 予選を勝ちあがった県内十八中学のチームが三日にわたって戦い、この日が準決勝、決勝だった。
 四中は三回戦まで順調に勝ち進み、準決勝も8-2と圧勝し、ダブルヘッダーで決勝にのぞんだ。相手は石見の雄、前年優勝の津宮中。こちらも危なげなく勝ち進み、決勝は好ゲームが予想された。試合経過を島根新聞の「戦評」(抄録)にゆずる。

【評】連日健投した津宮の佐々木は優勝試合でかたくなったのか立ち上りから四球を与えるなど生彩を欠き、バックの失策で招いた走者二、三塁のピンチに長岡の中前適時打をこうむり、二年連勝の夢を破られた。一方、松江四中は準決勝からの連投になる長岡が外角を切る曲速球をよくきめて、津宮打線を一安打に封じた。

 四中ナインのうち四人は津田小出身、五人が雑賀。この快進撃が両校出身者のあいだに漂っていたわだかまりを解消し、気持ちをひとつにしていた。
 この試合、ヤスノリこと長岡保則の左腕はさえ、被安打1、奪三振7の快投で、決勝打も放つ大活躍だった。
 準決勝で津宮に敗れた安来の左腕エース義原は、のち甲子園で活躍、一時は巨人軍の左腕の柱にもなった。この寸法ではかれば、長岡だってさらに上に行っても十分通用する力量の持ち主だったろう。
 長岡と対戦したことのある二回戦敗退の松江一中の四番・原陽堅のヤスノリ評。
「速い、速い。振り遅れなんてものじゃなかった。振ったときにはもう球はキャッチャー・ミットだった。打てる気がしなかったよ」
 原陽堅はのち高校陸上部のエースとなり、インターハイでは走幅跳、三段跳でダブル優勝、幅跳の記録7m20は高校新記録となり、われらを力づけてくれたものだ。

◆それぞれのその後
 決勝戦翌日の新聞に掲載された審判員たちの回顧座談会で「せめて上田くらいの脚力がだれにも欲しい」と評価されたケンイチこと上田賢一は巧打俊足の主将。大会後、長岡には最優秀選手賞、上田には敢闘賞がおくられている。
だが、長岡も上田も誘われた高校の野球部には進まなかった。後年、このバッテリーは共同で事業をはじめたようだ。長岡は老舗の蒲鉾屋の次男坊、上田は農家の長男だった。
 やがて高度成長期をむかえると、田や畑がどこまでも広がっていた郊外・津田の国道沿いの農地は次々に買いとられ、自動車関連企業や外食産業が立ち並ぶようになり、様相を一変させる。上田は農地の売却代金を資金に長岡と量販店や食料品店の経営にのりだしたという。
 が、やがてたちゆかなくなり、懊悩のすえに上田は早世、長岡はもとの蒲鉾屋にもどり、製品を地域のブランド品にまでそだてあげたが、彼も数年前に逝ってしまった。
 なぜかこの栄えのナインたちには早世が多い。
 二塁手・吉田直弘は油問屋の長男だった。向学心の強い彼は進学したかったのだが、代々の油商人だった父親は「あきんどに学問なんぞは要らん」と突っぱねる。だが、ついに「商業高校なら」と許した。吉田はさらに粘る。「大学に行かせて欲しい」と。
「とんでもないことだ。高校出たら商売に専念しろ」と突っぱねる父親に、「仕事も人並みにやりながら通う」と粘りとおし、頑固な父親は二度とも折れた。
 吉田は大学卒業後、事業も拡張して順調にみえたが、やがて食用油の流通は劇的な変化の波に洗われる。地方の小さな問屋の存在を許さなくなり、ついに刀をおさめ矢もつき、負債の整理に追われて業界を去る。大腸癌の手術を拒絶し、免疫療法で癌細胞をあやしながら去年逝った。

◆「優勝が自信をつけてくれた」
 さて冒頭に紹介した三番・遊撃手、ミノルこと田中稔のことだ。一度ゆっくり胸のうちをたたいてみたいと思っているうちに、還暦をすぎてあっけなく逝ってしまった。
 上田も田中の家もかなり大規模な農家だったが、ふたりのその後は対照的だった。上田は農地を手放して事業経営の道に進んだが、田中はひたすら農をもっぱらとして動かなかった。
 上田の姿すでにない小学校の還暦同窓会だった。
「田舎のなあ、百姓育ちのわしでも頑張ればやれる。そんな自信をつけてくれたのがあの優勝だった」
 田中のひとことに、胸をつかれる思いがした。そうか、あの中学時代の野球の優勝が彼にとってはそんなに大きなことだったのだ。
「いまも稲作か」
「いや、ほとんど施設だ」
「ははーん、ハウスか」
「うん、わしの野菜はなあ、市場でも定評があっていつも高値でとってもらえるよ」
「そうか、そいつは凄い」
「あんたたちゃあ、サラリーマンだろ。現役なら一千万円とれるだろうが、定年になりゃ年金だ。わしは今でも毎年一千万はあげてるよ」
 日焼けしたミノルの顔は誇らしげで、自信に満ちていた。
 数年後、彼は逝った。癌だったと聞いた。施設園芸、ハウスの野菜作りにはつらいことも多い。とりわけ夏の暑い日、ハウスの中での作業は思うだに汗がにじんできそうだ。さらに病害虫防除の農薬が加われば、体が蝕まれることはないのか……。一瞬そんな懸念がよぎったことを覚えている。
 結局、レギュラーのうち同期七人、すでに五人が逝った。なぜか短命。野球を続けた者はひとりもいない。

 そのとき、球場のわたしは何をしていたのか。
 四中優勝を報じる新聞には、優勝旗をかかげて行進するナインの晴れ姿がある。真下にもう一枚の写真、そこに自分の後ろ姿があった。こんな写真が新聞に載っていたなんてまるで記憶にない。
 キャプションに「選手におとらず連日奮闘する四中応援団」とある。満員のスタンドに向かい、ひとりだけグラウンドに背を向けて旗を振る自分の姿があった。
 翌日の紙面、審判員の回顧座談会の一節にこうあった。
「優勝戦で松四応援団が津宮に『フレー、フレー津宮』をおくったのもよかったが、これに応えて津宮の校長がいちいち立って答礼していたのは純情野球ならではのうるわしい光景だった」
 エッ、そんなことやってたの! 今さらながら「純情」を演じる自分が面はゆい。わたしの中学最後の夏は応援団長だった。
「ピアノなんぞ弾く軟弱なヤツ」と思われたくなくて、硬派に転進したのか。ラジオ少年はピアノ少年から応援団長に変身していた。