第十五回 自由横溢する高校生活

三原 浩良

◆すし詰めのマンモス高校へ
 昭和28年(1953)4月、県立松江高校の普通科に入学した。旧制中学から学制が改まって七年目の入学、つまり新制七期生というわけ。
 それから三年間の高校生活は、時を忘れるほど面白く、楽しかった。どこから書き出せばよいのか迷うほどで、以後の長い人生よりもはるかに充実していたような気がする。まあ、ふりかえれば青春なんてそんなものなんだろうけど。
 とにかく毎日の登校が実に楽しかった。その内実をひとことで言えと問われれば、それは「自由」であろうか。
 当時の松江高校は、生徒数二千人になんなんとするマンモス高校だった。その規模の大きさにまず驚いた。市内の普通高校はここだけだったから、みんな押し寄せてくる。近隣の中学からも汽車通学や電車通学での新入生がやってくる。はるか日本海に浮かぶ隠岐島から下宿住まい覚悟でやってくる新入生も多かった。
 ちょっぴり寂しかったのは小学校以来の級友の大半が就職し、進学も農業高校や商業高校、工業高校が多く、松江高校に進んだのはW君と僕だけだったこと。まだ高校進学率も低く、普通高校進学組はさらに少数派の時代だった。
 木造二階建て三棟の校舎は旧制女学校だったらしい。校名も校舎もめまぐるしくかわって、やっと落ち着いたところらしく、ここに二千人の若者と百人近い教師がひしめいていた。各学級とも五十人前後、すし詰めである。校内はいつもザワザワと落ちつかない雰囲気だった。
 男子生徒のほとんどが上履きなしの裸足で廊下を走っていた。音もたてば埃もたつ。旧制中学由来と思われるバンカラな気風がそこここに残っていた。

◆モザイク制と教師の戦争体験談
 とまどったのは授業の構成が「モザイク制」と呼ばれる、選択科目自由制だったことだ。必須科目だって同級生といっしょに授業を受けるのは担任教師の教科だけ。他の教科はすべてバラバラで、学年に関係なく大学の授業のように毎時間、鞄に教科書や辞書を詰め込んで目当ての教室をウロウロと探して移動する。これではザワザワするのも無理はない。
 モザイク制の授業は毎時間、生徒も違えば教師も違う。とりわけ理科の授業では上級生たちとも一緒になる。一年で物理をとろうが、三年でとろうが生徒の選択にまかされていた。
 僕は一年で化学と地学を選択したはずだが、地学の教室には三年生や二年生が後ろの方に陣取り、前のほうに一年生が並ぶ。後ろの方からは時折、紫煙が流れてくる。休憩時間に上級生たちが空缶片手にこっそり煙草をふかしているのである。体育館の裏には吸殻がたくさんころがっていた。
 後ろのほうでは前の生徒の背中に隠れて弁当を使っている上級生も珍しくない。「アゲベン」と称し、教師の目をぬすんで午前中に弁当を食べるのが流行っていた。
 そんな授業中にひとりの教師が、身ぶり手ぶりをまじえて大陸での戦時体験を自慢げに話し、驚いたことがある。
「戦争中になあ、○○○コロ(中国人の蔑称)を何人も斬ったよ。あっけないもんだ。首がコロンと穴に落ちて終わりだ」と大刀で斬りさげる仕草をしてみせた。
 教室は一瞬静まりかえった。教師の中には大陸からの復員教師もいたのである。
 だが、このモザイク制の試みは一年後にあっさり廃止された。
 後年、編集者時代に手がけた同年生れの桑原莞爾さん(熊本大学名誉教授)の自分史(『武夫原の春秋』)によれば、桑原さんの母校・松山東高校にも「当時は大学並の自由聴講制度の遺制のようなものがあり、単位を計算して私は英語の授業は止めてしまった」という。松山東高には第二外国語もあり、授業時間は百二十分、時間割りは二週で一循環、学期にも前期と後期があったそうだ。
 当時は似たような試みが各地の高校でもあったことがわかる。しかし、いずれも長くは続かなかったようである。受験体制の強化がすすんでいく。

◆面白かったクラス討論
 一年のクラス担任は、平本卓治先生だった。
 平本さんは学徒動員世代の〝ポツダム中尉〟。出征前に敗戦となり、大学に復学して四年後に松江高校に赴任、わたしが入学したときはまだ三十前の若手のパリパリ教師だった。
「一般社会」(いまは「公民」か)という教科の担当で、憲法や民法、労働法などを軸に、それこそ〝社会科〟そのものだった。
 ときどき生徒の求めに応じ、あるいは先生の提案で、授業はクラス討論に変わった。今風に言えばディベートの時間である。
 テーマは時事問題が多かった。「再軍備の是非」「死刑制度は是か非か」「全面講和か日米安保か」などなど。
 中学入学直後にはじまった朝鮮戦争は、すでに三年が経過し、まもなく休戦協定が結ばれようとしていた。警察予備隊は保安隊と名を変え、やがて自衛隊に変身しようというころ。「修身」の復活や、GHQによって禁じられていた剣道の復活が話題になり、「逆コース」が流行語になる時代だったから、生徒たちも政治に関心が高かった。
 再軍備や講和をめぐっては、大人の世界同様に生徒の意見も激しく対立するときもある。そんな侃々諤々のディベートを平本さんは笑顔で眺めている。論点を整理して議論をすすめることはあったが、決してどちらからの立場をとったり、自分の意見を開陳することはなかった。
 そんな刺激的な〝社会科〟授業は実に面白かった。

◆〝伝説〟の新聞部へ
 クラブ活動、さてどこに入ろうか。同じクラスの常松三郎君がはいっていた新聞部に決めた。彼の次兄も新聞部員だったそうで、話を聞けばなかなか面白そうだった。
 そこに三年生の郡山さんがいた。実は五年生だ、いや六年生だとか、いや入学は旧制中学だとか諸説いろいろある相当年長の先輩だった。何でも長い間結核を患い、そのため進級が大幅に遅れているらしかった。
 痩身痩躯、彫りの深い青白い顔だちの人で、長髪をかきあげながら我々に教え諭すように喋るのが印象的だった。ラジオドラマや芝居の台本も書いているらしく、将来はアナウンサーか演出家志望だと先輩が教えてくれた。その活舌ぶりは際だっていた。
 筆も立てば弁も立つ、子供のような新入生にとっては、向こうはまるで大人だった。
 狭い新聞部の部室はまるで梁山泊のよう。新聞部員には文芸部員など他の部員を兼ねている者も多く、いきおい話題は政治から小説や詩にうつり、その合評では難しい用語が飛びかい、時には論争にもなる。とても新米が口出しできる雰囲気ではない。それほど上級生たちは大きく見えた。
「松高新聞」にはさまざまな伝説があった。二転三転やっと統合なった校舎で教師たちが開いた盛大な祝宴をすっぱ抜いて校長を困惑させたとか、過激な? 記事で発禁や墨塗り新聞を発行したことがあったとかなかったとか。
 入部まもないころ、郡山さんたちは「夜の米軍基地ルポ」を企画した。わたしは知らなかったが、なんでも隣県の大篠津町(いまは米子市に合併)にあった米軍基地周辺の米兵専用特飲街に〝突撃取材〟を敢行した。
 常松三郎君によれば、「たしか泊りがけで行ったような気がする。夜、近くの民家の塀によじのぼって誰かがフラッシュをたいて写真をとったことをおぼえている」という。
 後になって「女子高生まで米兵の相手をさせられている?」という極秘情報の確認が目的だったと聞いた。
 うーん、たしかにそんな写真の掲載された新聞を目にした記憶がある。基地の町の薄暗がりでの娼婦たちのルポやインタビューまで載っていたような。
 手元に当時の新聞がないので、確認できない。松江高校の後身・松江北高の資料室でバックナンバーを調べたが、該当すると思われる15、16号はなぜか欠落していた。関係者には故人も多くなり、いまでは確認のしようがない。
 しばらくしてY紙に「アカい松高新聞」という見出しの中傷記事が載って、みんなたまげた。郡山さんの音頭でY紙の支局に抗議にでかけ、表で「でたらめを書くな!」とみんなで大声を張りあげた。「あんたらがやるべきことだろうが」というのが、こちらのホンネだった。
 そこへ中国から帰国したばかりの大石浩行君と藤井淑子さんも加わってきた。彼らから聞く〝毛沢東中国〟の話は、それまでパール・バックの『大地』程度の知識しかなかったわれわれには新鮮このうえない情報を提供してくれた。