第十六回 〝伝説の新聞部〟後日談

三原 浩良

◆「赤い新聞」は誤報だったのか
 昭和28年(1953)秋、「松高新聞」の「夜の米軍基地ルポ」(と仮にそう呼んでおく)の特集記事は、思わぬ波乱を呼ぶことになった。
「赤い学生新聞を公認、県当局松江高校に警告」という五段抜きの大見出しの記事が、写真入りでY紙(10月14日)の社会面に載ったのである。
 といってもふたつの記事の現物はいま手元にない。目にした記憶はおぼろで頼りない。あちこち探したが、いまだに見つけだせないでいる。
 松江高校の後身にあたる松江北高校の資料室で、バックナンバーをめくってみたが、該当すると思われる17号(か18号)は案の定、欠けていた。
 実は先のY紙の見出しも、20年後の昭和48年(1973)発行の「松江北高新聞」100号記念号に、取材の責任者だった郡山政宏さん(当時、山陰中央テレビ勤務、故人)が寄稿した記事によっている。
 郡山さんは「驚天動地、破天荒の記事であった。松高の関係者も、名ざしで糾弾されたこの私も誰一人想像しなかった内容である。声を大にして言うが、県が、わが校に警告した事実は全くない」と、憤激もあらたにつづっている。
 Y紙報道の翌々16日の地元紙「山陰新報」社会面の小さな記事を図書館のマイクロフィルムのなかに見つけた。
「誤報か〝赤い新聞〟」と見出しにある。新聞部内の対立から誤った情報が流されたもので、学校はただちに公開質問状を出した、とこの記事はY紙の報道をやんわりと否定している。部内の対立? 全く記憶にない。上級生のあいだではそんなことがあったのだろうか。
 しかし、記事末尾の県教育長談話は「松高新聞が基地や教育委員会の人事批判など政治問題を書いたというので問題になっている。教育委員会への批判は学生新聞のワクを越えるものではないかと考えられるし、基地問題は学生が取上げるにしても限度があるので現在調査中である」と、暗に「松高新聞」への批判をにじませている。
 いま読んでも、なにやら背後に根深いものがひそんでいることをうかがわせる記事であり、談話である。

◆「逆コース」のなかの人事異動
 三年続いた朝鮮戦争の休戦協定が結ばれる昭和28年は、あらゆる局面で、国内の対立が激しくなってきた年でもあった。
 吉田首相の「バカヤロー」解散で、自由党内はゴタゴタが続いたあげくに第五次吉田内閣が発足したが、石川県内灘村の米軍試射場の無期限使用を政府が決定したため各地の反米基地闘争が一気に燃えひろがった。国会では保安隊の自衛軍化をめぐって保守・革新の対立が深まり、沖縄では米民政府が武装兵を出動させて軍用地を次々に強制収用していた。論壇では「日本はアメリカの植民地か、従属国か」の論争が熱を帯びていた。 
 他方、スト規制法の成立で、労働組合の政治ストや賃上げを求めるストライキが全国で続発し、世情騒然としていた。文部省は日教組を強く意識した教育の中立性維持を通達、それまでGHQにより禁じられていた道徳や地理歴史教育の復活を打ち出して日教組や学者との対立が深まっていく。
 社会のあらゆる面で対立が激化し、緊張が高まっていた。昭和28年はそんな年だった。
 
 こうした世情を背景に、わたしの入学直前の松江高校では人事異動をめぐって紛争が起きていた。
『松江北高百年史』によれば、この年三月、県教委は校長に相談もなくいきなりふたりの教師の転勤を発令する。県教組高校部副部長だったU教諭は県西端の津和野高校へ、県教組高校部書記長のH教諭は山間部の高校の分校へ。
 学校は騒然となったらしい。県教組は不当人事だと猛反発、PTAや同窓会も歩調をそろえ、生徒会も高校新聞も教委非難の声をあげる。
 結局、激しい闘争のすえ、教委のメンツをたてていったんは赴任するが、半年後にはふたりの教師とも松高に復帰というわけのわからぬ妥協が成立した。
 新入生のわたしには何が起きているのかさっぱりわからなかったが、上級生たちは「よかった、よかった。勝った」と喜んでいた。
『百年史』は「逆コースの中の人事異動」と書いている。
 先の教育長談話が、「松高新聞」の「基地や教育委員会の人事批判」に神経をとがらしていた背景には、こうした保革の対立激化が反映していたように思われる。

◆発禁、焼却された〝幻の第8号〟
 だが、この「アカ新聞」事件には、その伏線ともいえるもうひとつの「事件」が先行して起きていた。
 先の「松江北高新聞」100号記念号の別の寄稿で、創刊(昭和25年)以来の発行責任者だった高橋正立さん(執筆時、京大助教授)が明かしている第8号〝焼却事件〟である。
「実は手許には第8号が2通りあるのです」と高橋さんは書いている。
問題は昭和26年4月発行の第8号である。トップ記事の見出しは「検閲制度の全面廃止―生徒協議会で決議」。学校制定の「出版基準要項」には「すべての出版物は配付前に検閲並びに保管を受けなければならない」とあり、「指導」という名のもとに事実上の事前検閲を定めていた。
 しかし、生徒側は「検閲制度はポツダム宣言違反、憲法違反だ」として、満場一致で廃止を決議、そのことを伝えたのがこの第8号だった。
 それまで学校側の事前検閲による発行遅れに悩まされていた新聞部は、生徒協議会の決議を即実行に移した。
 印刷をすませたのが週末、月曜日に生徒に配布するため新聞は印刷所に保管してあったが、「どこから知ったのか、学校当局は刷りあがった新聞をひそかに搬出。どうやら全部焼却してしまったようでした」と、高橋さんは明かしている。高橋さんがたまたま持ち帰った校正用の見本刷りだけが残った。
 作り直した第8号は二ヵ月後に再発行されたが、この発禁事件には触れていない。わずかにコラムが「言論の自由は憲法が保証している。だれでも知っている話である。学校新聞が発禁を受けて焼かれた話など聞くとちょっと色めきたくなる」と触れているだけである。
 第8号は〝幻の新聞〟となってしまった。再発行第8号刊行の五日前には朝鮮戦争が勃発していた。
 GHQはひそかに日本人の膨大な信書を片っぱしから開封し、これを日本人検閲官に翻訳させて情報収集にあたっていた。この事実が明らかになるのは、マッカーサー司令部が日本を去ってかなり時間がたってからのことである。
〝伝説の新聞部〟はここに始まっていたのである。

◆その後も検閲で墨塗り新聞が
 当時の松江高校では、「生徒会誌」という記念誌を毎年生徒の手で自主発行していた。
 論文あり、随筆あり、座談会あり、ルポあり、小説、詩、俳句、短歌ありと盛りたくさんの内容で、すべて生徒の編集だった。
 後に漫画家として名をなす二年先輩の園山俊二さん(故人)が、表紙やカットを描いていたように記憶する。
 その昭和29年(1954)版の座談会のなかに〝伝説の新聞部〟のその後がうかがえる一節がある。 

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 司会/新聞部について何か。
 水原/先頃、発行停止になりかけた事件があったろう。実際検閲制度はひどいよ。
 宮市/校長が校内の事について、一切の権力を持っているからね。出すなと言われれば生徒として出すわけにゆかないんだ。
 水原/しかし、あの事件は断固戦うべきだったな。
 宮市/その覚悟だったがね。新聞を支持してくれた先生方の意見を尊重した。墨を塗ってあるから当然生徒のなかから何らかの声が出てくるのを待っていたんだが、何もなくて情けなくなったね。
 水原/駄目だよ。松高じゃあ。
 宮市/今後はこんなことはあるまいと思うけど、指揮権発動はやめて欲しいね。

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 うーん、墨塗りの新聞の記憶はあるが、内容は定かではない。「夜の米軍基地ルポ」事件以来、どうやら学校側の事前検閲はさらに厳しくなっていたようだ。
 水原とは水原相富さん、当時の生徒会長。あとで知ったことだが、彼は帰還船事業で北朝鮮に帰国したと伝え聞いた。気になっているが、その後の消息は聞かない。
 宮市とは宮市正武さん、当時の新聞部長。彼は広告代理店勤務時代に早世してしまった。作詞家の阿久悠氏と同じ職場で机を並べていたはずだが、いずれも故人。三人とも遠くにいってしまい、いまとなっては確かめようもない。