第十七回 「きけわだつみのこえ」から始まった

三原 浩良

〝伝説の新聞部〟に入部したものの、やがてわたしは新聞づくりよりもほかの活動に目が向くようになっていく。
 最初が「わだつみ会」の運動だった。「わだつみ会」と言っても、いまでは知る人も少なくなったので、少々説明が必要だろう。

 昭和24年(1949)に戦没学徒の遺稿や手記をあつめた『きけわだつみのこえ』が刊行され、大きな反響を呼んだ。わたしも高校に入学してまもなく手にし、息苦しくなるほどの感銘をうけたことを覚えている。
『きけわだつみのこえ』という書名は「なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ」という投稿歌からとられたということだが、一読、この戦争に疑いを感じながら学なかばにして戦場に散った学生たち、自分よりわずか年長の人たちの胸中に思いをよせれば、涙と憤りなしには読めなかった。「なげけるか いかれるか はたもだせるか」―たしかにそんな思いがこみあげてきた。
 ずいぶん後年のことになるが、かつて特攻基地のあった鹿児島県知覧町の「知覧特攻平和会館」で、陸軍の特攻作戦で散華した青年たちの遺稿や遺品にふれたときにも、やはり涙や怒りでしばらくは口もきけなかった。
 
◆「徴兵反対」署名運動
『きけわだつみのこえ』刊行の翌年、昭和25年(1950)に「戦没学生記念会」(わだつみ会)が結成され、「反戦」「戦争体験の継承」をかかげて大学生や高校生を中心にした運動が全国にひろがっていく。
 そのシンボルとして本郷新氏の手になる塑像「わだつみ像」が制作されたが、東大が学内への設置を拒否して、立命館大学に設置が決まった。
 昭和28年(1953)11月、全学連のよびかけで「学園復興会議」に全国から学生が京都に集まり、「わだつみ像」は学生の歓迎デモに迎えられた。
 ところが、この学生デモと警官隊の衝突で多数の重傷者をだす「荒神橋事件」が起きる。
それを写真つきで報じた新聞記事は、鮮明とはいいがたいもののいまでも記憶にある。事件後、京都大学は自治会役員だった学生に放学や無期限停学などの重い処分を科した。停学者のなかに高校の先輩の名もあった。それもあってこの事件は、わたしにいっそう印象深く記憶されることになった。
 そんな経緯で誕生した「わだつみ会」に加わり、わたしは校内で活動をはじめる。
「不戦の集い」と名づけた数十人の集まりを校内で定期的にもち、機関紙「わだつみのこえ」を読んだり、ときには街頭に出て「徴兵反対」の署名活動をやった。
 集会の模様を写真つきで送ると、機関紙に大きく載る。そこには全国の他校の様子も載っている。競うような気持ちもあって熱心に原稿を送った。カメラマンを中学時代からの親友・池内英之君(故人)がつとめてくれた。
 こちらはなにしろ「全国紙」である。数ヵ月に一度しか出ない「松高新聞」より面白いので、新聞部からは少し足が遠のいたかもしれない。
「徴兵反対」署名運動なんて、いまではリアリティーのない運動にみえるかもしれないが、当時は朝鮮戦争のさなかである。「再軍備すべし」の声の一方で、「逆コース」を懸念する識者も多く、巷にもそんな危機感が漂っていた。
 たとえば、初版『きけわだつみのこえ』の解説で小田切秀雄は次のように書いている。

「ふたたび戦争の挑発される濃厚な危険が、―やつと平和になつて、傷つき疲れた生活と魂とに人間らしい明日への希望と可能が開かれはじめてからまだわずか四年しかたつてたつていないといふのに、またも戦争のキナ臭い匂いが漂いはじめているのだ」

「わだつみ会」仲間の常松三郎君と、「おい、ホントに徴兵制度ができたらどうする?」「う~ん、山にでも逃げるか」「迷うよなあ」なんて幼い議論をかわした記憶がある。
「徴兵」は結構リアリティーのある時代の空気だった。それを裏づけるように街頭での「徴兵反対」署名はよく集まった。大人たちもそんな空気を感じていたからだろう。

◆『わだつみのこえ』編集をめぐる批判
 この『きけわだつみのこえ』に先立つこと二年、昭和22年(1947)に『はるかなる山河』が刊行され、二十万部をこえるベストセラーになったという。こちらは戦没東大生の手記だけを集めたもので、『きけわだつみのこえ』は、他大学もふくむ一般公募の三百余人の遺稿や日記から七十五人分が採用されていた。
 ところがこの編集のありかたをめぐって厳しい批判の声があがる。
 初版本の序文にフランス文学者の渡邊一夫は次のように書いている。
「初め、僕は、かなり過激な、日本精神主義的な、或る時には戦争謳歌に近いやうな若干の短文までをも、全部採録するのが「公正」であると主張したのであつたが、出版部の方々は、必ずしも僕の意見には賛同の意を表されなかつた」
 当然ながら、戦没学生のすべてがこの戦争に疑いを抱いたり「反戦」や「厭戦」であったわけではない。それなのに「撃ちてしやまん」といった調子の手記はすべて編集段階で不採用とされ、渡邊の指摘する「公正」をめぐって批判されたのである。
 先に引用した小田切秀雄は解説の後段で次のように述べている。
「学生とちがつて、表現するすべを知らずまた表現する自由を固く封圧されてきた無数の若い魂たちは、どんな心を、どんなねがいや苦悩を、胸中ふかくひそめたまま死んでいつたことであらう」。
 戦没学徒は当時の社会にあっては、いわばエリートたちである。戦死者の大半はそんなエリートではない。背景にはそんな反発もあったに違いない。
 こうした批判にこたえるように、後年(1961年)、『戦没農民兵士の手紙』(岩波新書)が刊行され、こちらもベストセラーになるのだが、同書をめぐっても関係者のあいだで「農民兵士論争」が起きる。 
 乱暴に言ってしまえば、二書ともに遺稿をどう読むかをめぐり、「知識人と大衆」論争にまで発展し、原文の多様性をじゅうぶんに受けとめきれず、筆者(戦没者)そっちのけでそれぞれ自己の受けとめ方に固執した結果のようにみえてならない。
『きけわだつみのこえ』はその後、何度も再編集がほどこされて複数の出版社から刊行され、現在までロングセラーを続けている。
「わだつみ会」もその後、路線対立を数度にわたってくりかえし、今日にいたっているというが、これらのことどもはすべて高校卒業後、後年になって知りえたこと。わたしが「わだつみ会」の活動をはじめたころには、知る由もない。

◆「タダゴトじゃない」歴史認識
「えッ、日本はアメリカと戦争したの? それでどっちが勝ったの」
 そんな質問をした学生がいる、と近年よく耳にするようになった。ふ~ん、よくできたブラック・ジョークだと苦笑していたが、どうやらジョークではなく事実だと聞いてショックを受けた。
 昭和史家の半藤一利氏は、東京のある女子大の講義で「昭和史」についてアンケートをした。「太平洋戦争で日本と戦争をしなかった国は?」という設問で、四つの国名をあげて答えさせたところ、五十人中十三人がアメリカに○をつけたという。
 そしてひとりの学生が「どっちが勝ったんですか?」と尋ねたという。半藤氏は「若い人がお粗末という以上に、日本の教育そのものがそういうかたちになっているんだと思います。これはタダゴトじゃないぞ」と感じたという(半藤一利ほか『体験から歴史へ』、講談社)。
 たしかにこれは「タダゴト」ではない。隣国との歴史認識の相違が話題になる昨今だが、「認識の相違」レベルの話ではない。

 知覧の「特攻平和会館」にはその後も二度ばかり足を運んだが、展示の途中でふいにこみあげてくる思いに、いたたまれず外にでたこともある。
 その折りのことだが、たまたま修学旅行か見学旅行の途中らしい中学生の群れにでくわした。彼らはガヤガヤとうるさいほど私語をかわしながら入館していった。ところが見学を終えて出てきた彼らは私語もほとんどなく、静まりかえっていた。なかにはうっすらと涙ぐむ女学生もいた。
 彼らが受けたショックはわたしとあまり違いないと確信できて、なぜかホッとした記憶がよみがえる。
 お茶の水大で「名著」講読の講義をしていた藤原正彦氏は、テキストに『きけわだつみのこえ』をとりあげたところ、「涙なしにはよめなかった」と感想を記した学生もいたと書いている(『名著講義』文藝春秋)。

◆老学者、胸底に沈む思い
 六十年ぶりに『きけわだつみのこえ』を読みかえした。さすがに六十年ともなると、感情移入から感情過多になることもなく、読みすすめることができた。事実は重いが、どちらかといえば乾いた感想を抱いた。
 なかに沖縄特攻で戦死した林市造が出撃前に母にあてた手紙(抄出)がある。この「遺言」ともいうべき書簡は、特攻死を目前にした母や家族への真情にあふれ、ほかの特攻関係書や戦史にもよく引用される。
 六年ほどまえ、偶然にも出版社時代にこの林市造の二十三年余の短い青春を描いた本づくりにかかわった(多田茂治『母への遺書《沖縄特攻・林市造》』、弦書房)。
 遺族や学友たちに丹念に取材し、市造の短い生涯を紙のうえに呼び戻した好著である。くわしくは同書を読んでほしいのだが、別の意味で衝撃だったのは、生き残った林の「親友だった」秀村選三・九州大学名誉教授の思いにふれたことだった。
 秀村さんは林と旧制中学、高校、京都帝大経済学部の同窓、同期の親友で、ともにクリスチャンだったが、学徒出陣でふたりとも第十四期海軍航空予備学生となり、土浦海軍航空隊に入隊する。
 林は訓練ののち鹿児島県鹿屋基地から神風特攻隊の一員として零戦で出撃、沖縄近海の米機動部隊に突入して散華する。
 一方、秀村さんは土浦で病気をしたため佐世保海兵団にかえされ、その後、魚雷艇訓練を受けて特攻を志願したが、はたせず敗戦をむかえる。
 日ごろの秀村さんは豪快という形容がぴったりの老学者だが、この本によって彼が沖縄、与論島などに親友鎮魂の旅にでていたことを知った。
 林がどうやら与論島東方に出撃して散華したことを知った秀村さんは、2000年に世論島を訪れて東の空のうかがう海岸から、野の花を流して、林をしのんだという。
 秀村さんは長年にわたり、江戸時代の鹿児島の郷村の庄屋などの古文書を調べあげ、その精緻な分析、『幕末期薩摩藩の農業と社会《大隅国高山郷士守屋家をめぐって》』で先年、日本学士院賞恩賜賞を受賞している。
 受賞前後に会った折り、秀村さんは「林は鹿児島から飛び立っていった。それで薩摩にひきつけられたかもしれんなあ」と洩らされた。
 この老学者は、そんな思いを胸奥に秘めながら研究生活に打ち込んでいたのだ、と、これまた重い感銘を受けた。
「特攻は狂気の果てであったが、特攻だけでなく、戦争そのものを常に強く否定する絶対非戦こそ、亡くなった友に応えることだと私は思う」
 秀村さんは、「与論島東方海上のそら」と題したエッセーをこう結んでいる。