第十九回 大学生の帰郷運動に参加した

三原 浩良

◆アコーディオンで農村青年と交流
〝熱狂のフォークダンス〟の二ヵ月ほど前だったと思う。あのアコーディオンに先輩からお呼びがかかった。
 夏休みに郷里に帰省した学生たちが農村青年と交流しようというのである。例のアコーディオンで校内で「歌う会」をやっていたので、わたしにも白羽の矢が飛んできたらしい。「君もアコーディオンをかついで来い」というわけである。尊敬する先輩からの誘いである。否も応もない、いや自身大いに関心があったので、迷わず参加した。
 京大や島大の学生、高校の先輩五、六人と山あいの村に出かけていった。どこの村だったのか思いだせないが、深い山に囲まれた村だったように記憶する。
 
 資料によれば、この学生の帰郷運動は、全学連の方針で始まったらしいが、京都大学の同学会(自治会)はことのほか熱心だった。
 先輩の高橋正立さん(京大名誉教授)は当時同学会本部詰めで現場には出ていなかったということだが、いただいた資料リスト(京大文書館蔵)によれば、昭和28年(1953)から数年にわたってガリ版刷りのニュースが発行されており、相当広範囲に活動が広がっていたことがわかる。
 高橋さんによれば、「一週間くらいかけて農村を回った。講師陣には、当時二十九歳だった鶴見俊輔さんも」いたという。
 エッ、あのグループに鶴見さんもいたのか! わたしが参加したのはおそらく昭和29年(1954)の夏だと思われるが、鶴見さんの姿に記憶はない。
 当時の鶴見さんは京大人文科学研究所助教授のはず。ほかの資料から推察すると、鶴見さんが参加したのはどうやらお隣り鳥取県の農村ではなかったかと思われる。
 高橋さんの手紙には「鳥取でやはり帰郷活動をしたレポートが当時の『思想の科学』(執筆者・西村)に載っているはずです。鶴見さんが高く評価していたので記憶にあります」とある。

 農作業が終わる日暮れどき、村の寄合所のようなところに、三々五々若い男女が好奇心に目を輝かせて(わたしにはそう映った)集まってくる。そこでガリ版刷りの歌詞を書いた紙を渡して一緒に歌い、フォークダンスの伴奏もやった。
 はじめは恐るおそる、やや引き気味だった青年たちも、ダンスタイムになると照れながらも楽しそうだった。やがて頃合いをみて先輩たちが「社会の矛盾」について、「その矛盾の打開」について話し始める。
 しかし、歌やダンスの時にはあんなに楽しそうだった青年たちも、先輩たちの話にはあまり乗ってこなかった。退屈そうだったり、警戒の色を隠さない人もいた。
「交流」と言いつつ、何だか「上から目線」の一方通行のような気がして、少し異和を覚えたような気がする。

◆雑誌「平凡」の時代と地方
 話は前後するが、十年ほどまえ当時宮崎公立大の研究員だった阪本博志さん(現・同大准教授)の訪問を受けた。
 そのころ、わたしはこのコラムの前身にあたる同名の「昭和の子」をつれづれに書き継いでいた。いそがしい仕事だったので、メモというか断簡とでも呼ぶしかないものだったが、なかの一編『「平凡」と山村訪問』が阪本さんの目にとまったらしい。その一節を引いておく。

 戦後日本の社会改革を目指す学生たちは、大学所在地の大都会でデモやストライキをするだけでなく、長い夏休みや冬休みを利用してそれぞれの郷里に帰省した折りに、郷里の勤労青年たちと交流する運動を〝帰省活動〟と称して提案していた。
 当時、娯楽雑誌『平凡』は戦後初めて百万部を越す圧倒的な部数を誇っていたが、その愛読者の大半は勤労青少年、それも大都市よりも田舎で圧倒的な売れ行きをみせていた。
『平凡』の投稿欄には勤労青年(女性の方が多かった)読者からの投稿が殺到し、読者同士の文通も盛んだった。「平凡友の会」という読者組織が広がり、出版社を介して読者同士の交流が広がっていた。学生たちはここに着目し、自分たちも積極的に『平凡』に投書し、交流を呼びかけてもいた。

「さらに詳しく語れ」という阪本さんのお尋ねには、資料不足から満足な回答はできなかったが、阪本さんは後日、こうした交流を追跡調査した「雑誌『平凡』の時代と若者たち」というレポート(「出版ニュース」2003年3月中旬号)に発表している。
 レポートの中に、当時、『平凡』の読者と大学生との大規模な文通運動を展開した西村和義氏のコメントが紹介されている。
「農村で終日畠仕事をしていられる方や、工場で冷たい機械を前に過ごす女工さんなどの多くが本当に『平凡』などを頼りにしている事は事実であり、この事実は極めて重大な問題を含んでいるように思えるのです」
 この西村和義氏が、先の高橋さんの手紙にあった西村氏であろう。全学連の呼びかけた〝帰郷活動〟とは少々ちがう視点から、当時京大経済学部の学生だった西村氏はこの活動を提起・実行にうつしたらしい。それを鶴見氏は「高く評価」した。
 先のレポートによれば、「当時の学生運動に違和感をおぼえ」ていた西村氏は、「イデオロギー偏重の政治活動が、仲間になるべき人を敵に追いやり、運動は都会中心のカンパニア主義におちいり、一人ひとりを尊重せず、人々をマスとしてとらえていた。また極端な指導者意識から独善的な運動になっていた」として、「知識人と大衆、都会と地方の溝を埋めるべく独自の平和運動を企画・展開」したという。
 その基点は、「平凡」読者との文通。西村氏の投稿に対し一年間に一千通をうわまわる返信があり、これにさらに返信を書くために京大や同志社の学生百五十人を集めたところから彼の〝帰郷活動〟は始まったという。
 阪本さんの関係者への聞き書きや調査結果は後年、『「平凡」の時代―1950年代の大衆娯楽雑誌と若者たち』(2008年、昭和堂)としてまとめられている。
 
 わたしの周辺にも「平凡」の愛読者はかなりいた。なかには〝ミスター平凡〟に応募して、当選した同期生もいたと記憶する。
 この〝帰郷活動〟の末端にすこしだけかかわって感じたわたしの小さな違和感は、すでに渦中にあった西村氏が鋭く指摘していたことと地下水脈でつながっていたのかもしれない、といまにして思う。
 後年、わたしが「地方」ということ、「地方に生きる」ということにこだわりつづけるようになる最初のきっかけだったのかもしれない。
 こうして昭和五十四年(1929)の、短いが印象深い夏が終わった。